二度目の緊急事態宣言が発出されて1週間。
私の奉職する企業も。昨年度の発出時同様、基本的に在宅勤務となり、またぞろ家篭りの日々となった。会社に行かなくて済むのは大いに歓迎だ(笑)。週に一度程度の出社が義務付けられていた、緊急事態宣言解除後もなるべく出ないようにしていたくらいだから。混んだ電車に乗るのは論外だが、時間をずらして早朝出勤するのも面倒なことは面倒だった。早朝とはいえ、首都圏の、それも有数の混雑電車では、車内で、安全とされる一定の距離を取るのは難しいし、咳やくしゃみなどに必要以上の緊張を強いられる。自分がやらかしてしまった時なんざ最悪だ。
とはいえ、前回の宣言時よりは少々世間の皆さんの感覚が麻痺してきているとも感じる。土曜である昨日の夕刻、近所の大きめのスーパーに行ったら、混雑と言って良い状態だった。通路という通路に人はいるし、レジにも長々と並ばなければならなかった。袋詰めするレーンなんか、思いっきり密だったし…。交通事故にしろ、事件にせよ「自分だけにはそんなものは降りかかってこない」という考えはは「普通」に暮らそうと考えれば皆が持って当然の「根拠のない安心感」あるいは「無意識の無視」だが、昨今のコロナ禍だけは、安心に値する根拠を備え、意識的に危機を直視するという姿勢が必要だろう。私の職場での発症者も、家族以外に濃厚接触者に該当する人物はいなかったそうだし、帰省先からも、余計な寄り道をせずに、普通に電車に乗って帰京してきただけなのに感染してしまったのだ。用心に越したことはない。今後はなるべく人の少なそうな店舗を選び、夕刻の訪問は極力避けて買い物をしようと思うし、宅配も積極的に活用するつもりだ。
正月の帰省時に生後9ヶ月の姪っ子と戯れた。のみならず、彼女の姿を写真や動画にたくさん収めてきた。毎日飽きもせず撮ってきた画像や動画を見ながら、彼女に実際に触れ合えない寂しさを紛らわしている状態だ。もはや病に近い(苦笑)。
さて、そんな中一つの動画を見返していて気づいたことがある。私が「高い高い」をしてあげて姪っ子が非常に喜んでいる様子を写した動画なのだが、何度目かに「高い高い」をやめて床に下ろすと姪っ子は「あれ、もう終わり?もっとやってよ」とでも言いたげに私の顔を上目遣いで二度見上げるのだ。一度目はその顔がいかにも可愛らしくて見惚れてしまったが、二度目はちょうど近くに来た当家の最高権力者様に姪っ子を抱っこさせようとしていたため、その視線を見逃してしまっていた。結果的に私は彼女の「もっともっと高い高いしてちょうだい」という希望を無視してしまった事になる。
それこそ四六時中彼女の姿に目を配っている母親なら決して彼女のこういうサインを見逃さず、彼女の要望に応えようとするだろう。そういう行為の積み重ねが、母親への絶対的な信頼につながるのだなぁ、とついつい初歩的な発達心理学の「理屈」で考えてしまうのが一段階間の空いた叔父の視点。いわゆる科学的な視点で考えると、「幼な子がかわいい」という意識は、脳が勝手にかけたバイアスによるものであり、赤ん坊の泣き声というのは人間の危機意識を呼び覚ます音域なのだそうだ。故に大人は幼な子が示す一つ一つの仕草を愛おしいと思うのだし、泣き声が聞こえれば何をおいてもすぐに駆けつけて、何を欲しているのかを「全集中」で探り出して、その欲求に応えようとする。う〜ん、勉強になるなぁ。姪っ子ちゃん、久しぶりにアカデミックな感覚を思い出させてくれてありがとう。でも何より君の「高い高い」を喜ぶ顔は愛くるしい。次回はちゃんと君の要求を見逃さないようにするからね。何回でも高い高いしてあげよう。
先日つれづれなるままにTwitterを眺めていたら、こんな動画に目が止まってしまった。
なるほど、役立つ。自分のためにリツイート。 https://t.co/5kkVidrUnm
— 江良与一 (@Bossa_Nova11) 2021年1月14日
見ているうちに、自分の部屋の箪笥の、乱雑な引き出しの中身が気になって、最初に紹介されているTシャツの畳み方と収納の仕方を実践してみる事にした。
結果から言うと、見事にごちゃごちゃ状態は解消した。乱雑さを通り越して、ぎゅうぎゅうづめで、開け閉めにさえ苦労していた引き出しの中がスッキリと収まり、空きスペースまでできてしまったのだ。
本当は実際の箪笥のビフォアアフターの写真を撮って比較すればよかったのだが、そこまで頭が回らなかったのと、アフターの様子も決して「整然と」とは言い難い状態なので、ご容赦いただきたい。 今までの無駄な空間の使い方と無秩序さを反省した。今後は今の状態を崩さないよう、今回の畳み方と収納の仕方を続けていこうと思う。