脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

ミスは誰でもする。大事なのはその後の生き方『世紀の落球 「戦犯」と呼ばれた男たちのその後』読後感

 

 「世紀の落球」という言葉を聞いて、まず最初に思い出すのは元中日の遊撃手、宇野勝氏が1981年の巨人戦で起こした「ヘディング事件」だ。この年の中日は5位に終わっており、この「事件」が勃発した8月にはすでに優勝の望みはなかったし、その他の球団も含めペナントの行方という意味においては大した影響はなかった。この試合の前まで158試合連続得点という記録を続けていた巨人を、完封寸前まで追い詰めた投手星野仙一氏の執念が実る寸前に夢と化してしまったのが「悪影響」と言えるくらいのお話。

むしろ宇野氏はこの事件を機に「チョンボのウーやん」として大いに名を売り、愛されキャラとしてブレイクし、長い間その人気を保った。ヘディング後のボールはグラウンドを転々としたが、宇野氏の人生は大きくいい方向に転がったのだ。本人がそのことを喜んでいたかどうかは別の問題だが…。

 

さて、標題の書でいうところの「世紀の落球」とはその落球によって、その試合の敗戦を招いただけではなく、シーズンや大会全体の流れまでを変えてしまったエラーのことで、その後日本全国津々浦々よりエラーした本人をバッシングする動きが出て、本人が著しいダメージを受けてしまった事象を指す。先に挙げた宇野氏なんてのは誠に幸福な例外というべきで、この書に取り上げられた、G.G.佐藤氏、加藤直樹氏、池田純一氏の三名は酷いバッシングを受けた。

 

西武などで強打の外野手として活躍したG.G.佐藤氏は2008年の北京五輪で、二度落球し、全員がプロ野球選手で、「金メダルを狙う」と宣言していたチームをメダルなしの4位という結果に導いた。

 

星稜高校一塁手だった加藤直樹氏は1979年の夏の甲子園箕島高校戦で勝利寸前にファウルフライを捕り損ね、その直後に同点に追いつかれ、最終的に延長18回を戦った末に敗れてしまった。なお、この大会箕島高校は優勝した。

 

阪神の外野手として活躍し、サヨナラ本塁打を5本も打って「意外性のある打者」として名を売った池田純一氏は1973年の巨人戦でセンターライナーを後逸し、チームは逆転負けを食らう。このシーズン、この試合まで4位と不調だった巨人はこれをきっかけに息を吹き返し、空前絶後の大記録であるV9を達成するのだ。

 

いずれの例を見ても、確かに重い重いエラーではある。当該試合だけでなく、エラー後のチームは結果的に不本意な方向に向かってしまっている。日本全国で注目されていた試合だけに、エラーしたシーンを観た有象無象からバッシングを受けてしまうのは仕方のないことだと言えるのかもしれない。しかし、誰しもエラーをしようと思ってプレーしているわけではない。必死で戦った結果としてのエラーを責めることなど、本来誰もできることではないのだ。必死に練習して試合に臨んでも、エラー発生の確率を限りなく低くすることはできるが、完全に0にすることはできない。そこが人間のやることの限界であり、また妙味でもある。そして、二度と同じエラーを起こさないよう努力すること、犯したエラーを取り戻すために努力を重ねることもまた、その人間の「向上」につながっていく。

G.G.佐藤氏はオリンピックと同年のライオンズの優勝に大いに貢献したし、翌年はキャリアハイの成績を挙げた。加藤氏は中学から星稜でチームメイトだった方と少年野球の指導者として地域社会と野球というスポーツの明日を支えることに大いに貢献している。池田氏は5本のサヨナラ本塁打のうちの3本を「世紀の落球」後に放つなど、少なくとも落球して負けた試合の数十倍勝利に貢献した。

我々、観衆という「外野」はどうしても結果だけ見て文句を言いたがる生き物だし、後々になって、勝手に「あのエラーが勝負の分岐点になった」などという余計な物語を作ってしまいたがる生き物でもある。各々の選手がその後素晴らしい活躍を見せても、ついつい過去のエラーを蒸し返しては「あのエラーさえなければ」と思ってしまう誠に厄介な性質も持ち合わせている。この傾向はネット社会の隆盛によってますます強化され「溺れた犬を叩く」とか「一度過ちを犯した人間は罪を償っても絶対に許さない」という殺伐とした世の中を生んでいるようだ。

 

「罪を憎んで人を憎まず」などという偉そうな言葉を吐く資格は私にはないが、少なくともエラー後に積み重ねた努力とその成果を否定することだけはやめようと思う。エラーした本人が一番その罪の重さを感じているはずだし、先にも述べたがそこでの反省とその後の精進こそが人間としての向上につながるのだ。全くエラーのない人生を送れる人間などいないはずで、「世紀の落球」をやらかした人間と「普通の人間」との差は、目立ったか目立たないかだけなのだ。大切なのはエラー後の生き方。思わぬ教訓をいただいた一冊だった。