脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

嫌いな人がいる自分を責めなくていい『嫌いな人がいる人へ 自分を知って生きやすくなるメントレ』読後感

 

 

私は嫌いな人がたくさんいる。

 

つい最近で言えば、英語学習のやる気のなさをごまかすのに「みんな」というワードを持ち出してきて、自分自身の問題を「みんな」の問題にしてしまおうとしたマッスルバカ。

 

無理やり当時の所属部署での仕事をこなさせようとして、「今の部署で頑張るのが人間としての正しいあり方だ」みたいなことを休職中の私に臆面もなく言い放った「なりきり金八先生」上司。人事に関して極微弱な権限しかないくせに…。

 

私が健康上の問題で一番やりたくないと言っていた業務を押し付けてきた上司もいれば、散々こき使った挙句、それまでに挙げた実績をあっさり無視してど田舎の拠点に島流しにした上司もいれば、会議などの席の度に揚げ足取りに終始してきたクソ親父もいる。遡れば、高校時代に因縁を吹っかけてきて、勝手に敵視してきたバカもいれば小学校時代に教師を始めとする「公権力」をバックに陰に陽に様々な圧力をかけてきた奴もいる。

 

ざっと思いつくだけで、許されるなら叩き殺してやりたいと思っている人間はこれだけいる。で、こうした奴らから受けた仕打ちを考えるたびに、それこそ怒髪天をつくという心理状況が出来し、いろんなことをしてようやく怒りをおさめた時には疲労困憊してココロのエネルギーは枯渇状態。さらにいうと、そんなことでエネルギーを枯渇させてしまった自分を責める気持ちまで湧いてきて、精神衛生上誠によろしくない。

 

とどめは、「これだけ嫌われてしまう私という人間は実は本当に嫌な奴なんじゃないか?」という疑問に襲われることだ。ここまできてしまうと、メンタルを損傷するフルコースである。いつまでも、怒り、疲労、自責の念という悪循環を繰り返すことになる。最近はそういう状態になる前に、酒を飲んじゃうとか、トレーニングで何も考えられない状態まで自分を追い込むとか、バカな映画やお笑いの類のDVDでも見て気を紛らわせてしまうことの方が多いが…。

 

著者である古山有則氏は、大学院卒業後就いた職務で、自身のメンタルに様々なダメージを受けた経験も活かし絶大な人気を誇るメンタルトレーナーとして活躍されている方。標題の書においても、平易な言葉を使いながら、心に染みる文章を記されている。

中でも深く印象に残ったのが、題名にもあげた「嫌いな人がいる自分を責めなくていい」という章。古山氏は「トマトが嫌いな人が人がいます。その人はトマトが嫌いでも、トマトを否定することはしないと思います。ただ、自分は食べないだけです。」と述べている。私自身トマトが大嫌いでもあるので、この言葉はストンと腑に落ちた。私は特に生のトマトは口に入れた時の食感が気持ち悪くて全く食べられない(註 火を通してあったり、形が全く感じられないスープなどなら大丈夫)。しかしながら世間的にはトマトはおそらく好きだと答える方の方が圧倒的に多い食物だし、私の好き嫌いとは全く関係なくすでに世の中に存在してしまっているものであり、否定することは不可能だし、意味もない。

 

嫌いな人間もそれと一緒。殺人でも犯さない限りその人間を消去することはできないし、別に私が嫌ったところで、その人間が私に対して為した「ムカつくこと」を反省するわけでもない。そんな人間のことを考えるだけでも自分にとって損なのだから、「嫌いな奴」フォルダーを作ってその中に入れてしまい、あとは一切無視すれば良いのだ。「自分は食べない」という姿勢に徹すれば良い。スーパーや八百屋の店先でトマトを見かけても「ああ、トマトがあるな」という事実の確認のみにとどめて「俺は小学校の給食で無理やり食わされて後で吐いたんだ。こんなもんが世の中にあるからだちくしょー」とまで思考を拡大しなければ良いのだ。

 

そう思って以降、職場で顔を合わすことがあるマッスルバカを見ても「あ、なんかでかくて若いくせに髪の毛が薄くなり始めているかわいそうな奴がいるな」という事実認識だけをココロの中に浮かび上がらせることに8割方は成功するようになった。残りの2割はまだ「てめえは英語もできねえが、日本語はもっとできねえ。小学生のレベルから学び直せ、スポーツだけで世渡りしてきてそのスポーツでも挫折したド低脳野郎。一丁前に社会人ヅラしてんじゃねーぞ。てめえが大人レベルなのは頭髪の薄さだけだ、バーカ」という悪罵が浮かんできてしまう(苦笑)。ま、これも反復練習だ。物体の一種として見做せるまで修行を積むしかない。他のすべてのクソ野郎どもも然りだ。

 

この本には折に触れて読み返して心を落ち着けるのに有効なフレーズがたくさんおさめられている。電子書籍のライブラリーには常備しておきたい一冊となった。