脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

幸せの形は人それぞれ、家族の形だって人それぞれであっていい『ルポ定形外家族 わたしの家は「ふつう」じゃない』読後感

 

 

自身も離婚を経験し、フリーライターの傍らシングルマザーとして子育てを経験していくうち「普通の家族」って一体何?という疑問を持った著者大塚玲子氏が、様々な形の「家族」を取材してまとめあげたのが標題の書。

 

「普通の家族」って一体どんな形態のモノを指すのだろうか?漠然としたイメージとしては、男女二人の夫婦がその二人の間に生まれた子供を育てながら一緒に暮らすという姿が浮かんでくる。子供の人数の多寡、夫婦どちらかの親と同居などという条件が加わることもあるが、基本的には血縁関係のある人間の集団というのが「普通の家族」という言葉からイメージされる形態だろうし、この形態で暮らす日本人が多数派を占めているのが現在の状況だろうと思う。

 

この本には、そうした多数派を占める家族は当然のことながら紹介されていない。じいじが二人いる(祖父が男性パートナーと暮らしている)とか、夫婦以外の他人から精子提供を受けてできた子供とか、いわゆる「里親」に育てられた子供などの例が紹介されている。中には、父親となる男性が、当時の妻と離婚することを前提に母親と付き合って、生を受けることになったものの、結局父親は妻とは離婚せず、別の家庭を持った「父親」が存在したという人などという特別に入りくんだ事情を持つ方の例なども紹介されている。いやはや。現在の社会で「常識」とされている制度を、簡単に覆してしまう人間の行動の多様さには恐れ入るしかない。

 

ここで、注目したいのが、いわゆる「普通の家族」ではない形の生活を続けたとしても、必ずしもその生活を続けた方が、殊更不幸だったりするわけではないということだ。もちろん、周りからの「異端視」により深く傷つき、不幸な人生を送っている方もいることだろうが、少なくとも定形外の家族で生活してきたことは不幸の絶対条件ではないということだ。両親がきちんといてもグレるやつはグレるし、片親だったり、両親共に不在でもきちんと育つ人は育つ。ちゃんと幸福だって感じる事ができる。人間は一人一人が全て違う。何を不幸と感じ、何を幸福と感じるかは人それぞれだし、環境の一つとしての家族だって、まさに人それぞれ。その成員たちが幸せであれば、他人がとやかく言うべきことではないのだ。

 

しかしながら、「普通ではない家族」の形を白眼視する人はまだまだ多い。離婚へのハードルは少なくとも30年くらい前と比較すればかなり低くはなっているものの、その結果として発生数が増えたシングルマザー、シングルファザーに対しては世間の風当たりというやつは強い。LGBTカップルが育てている子供に関しても、一種独特な感情でみてしまう人は、私も含めまだまだ数が多いように思う。

 

こうした「定形外の家族」が異端視される社会というのは、結局は少数派の人々に対する偏見と差別が消えていない窮屈な社会である。多種多様な人々の意見や生活を尊重することが最終的には様々な家族のあり方を尊重することにつながると思うのだが、一つの問題が良い方向に向かっても、別の方向からもっと強力な差別や偏見がやってくるというのも社会の常だ。例えば、LGBTの人々の意見は比較的尊重されるようにはなってきたが、経済に代表される「格差」による偏見や差別は逆に強くなっているように私には思われる。大学間の格差などはその典型例だが、親が経済的に恵まれた人の方がいわゆる「いい大学」に入れる確率が高まり、今の世代の格差は、次の世代ではより深刻な問題となる可能性がある。

 

こうした問題が解消されれば家族の形についての偏見も自然と消えていくと思うのだが、いかがだろうか?

 

最後に、一つ前の投稿でも触れた姪っ子について。姪っ子の母親は外国人であり、姪っ子は混血児ということになる。国際化が進む現代の日本においても、姪の家族は定形外の家族とみなされる可能性が多分に考えられるし、混血児は子供の社会の中では分かりやすい異端者だ。もし、姪が混血児であることを理由にいじめにでも会うような事があれば、すぐにでも引き取って、当家の最寄りのインターナショナルスクールに通わせてやるぞ、くらいの気合は持ち合わせてはいるものの、そんな心配をしなくて済む社会が一番なのだ。今はコロナコロナで日も夜もくれぬという状態だが、収束の目処がついた時点で、ダイバーシティ庁でも作ってもらって、ぜひ専門の実行部隊を組織してほしい。島国日本とはいえ、ある程度の移民を受け入れなければならないような時代は遠からず来るように思う。その際にできるだけ社会的に齟齬を生まないような制度と民心を確立しておくことも政治家の大事な務めであるはずだ。