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サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

自分には日本人のハートがある『トンプソンルーク』読後感

 

トンプソン ルーク Luke Thompson

トンプソン ルーク Luke Thompson

  • 発売日: 2020/01/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 昨年日本中を熱狂させたラグビー日本代表(以下ジャパン)の屋台骨を、文字通り体を張って十数年に渡り支え続けたのが、心やさしき大男トンプソン・ルーク氏。どの試合も常に高いワークレートで、ボール争奪戦、タックル、スクラムラインアウト、ボールキャリーに全力を注ぎ続けたプレーヤーだ。

 

各メディアで紹介される試合のハイライトはトライをゲットした選手を中心に編集されることが多く、それゆえ、目立つことは少ないが、試合後の解析データでは、高いワークレートを示す数値がしっかり示される。特にタックルに関しては企図数、成功率ともに常にチームトップだ。これはロックというポジションの選手としては非常に珍しいことだ。ロックの選手は一番先に相手にヒットするのではなく、二番手、三番手として密集状態の中での力くらべを担うことが多いのだ。彼がスタミナだけでなくスピードもあり、かつ、危機を嗅ぎつける能力にも優れていることの証左だ。試合の解説者であるトップレベラグビー経験者の元選手や指導者たちからの評価も非常に高い。玄人受けする選手なのである。

 

標題の書は、昨年末をもってラグビーの現役選手を引退し、故郷ニュージーランドに戻って牧場主として第二の人生を送り始めた、トンプソン・ルーク氏の半世紀を綴るとともに、彼をウォッチし続けたスポーツライター村上晃一氏の随想、ジャパンのチームメイトとして戦った選手たちからのトンプソン氏へのメッセージ、そして彼が愛してやまなかった東大阪の街(彼が長年在籍した近鉄ライナーズの本拠地であり、高校ラグビーの聖地である近鉄花園ラグビー場のある街)の人々が語る思い出話で構成されている。

 

彼は、俗に年金リーグと称される日本のトップリーグの恩恵を受けられるような選手ではなかった。すなわち、すでに世界のトップレベルで活躍し、多額なサラリーで迎えられて、そのサラリーを退職金がわりに引退するようなベテランではなかったのだ。大学を卒業後ほどなくして、活躍の場を求めて、異文化の中に飛び込んできた若者で、挑戦の気に満ち満ちていた、ところが、飛び込んだ先がちょっと悪かった。当時日の出の勢いだった三洋電機(現パナソニック)だったのである。当時の三洋電機には元オールブラックストニー・ブラウン始め、実力者ぞろい。おまけに外国人枠などというものがあり、トンプソン氏は出たり出なかったりを繰り返す「一軍半」というポジションに甘んじていたのだ。実際に成績も振るわず、三洋電機との契約が更新されないことがわかって、帰国を考えていた時に声をかけたのが近鉄ライナーズだったのだ。以来引退までの14年間トンプソン選手は東大阪市の住人となり、その間に日本に帰化した。彼の日本語が関西弁なのは、彼が東大阪市に深い愛情を持ったことが、日本への帰化の大きな要素であったことを示している。地元の人々の惜別メッセージを読むと、そのことが良くわかる。

 

さて、この一冊はトンプソン氏の半世記であるとともに、ジャパンというチームの半世記でもある。ジャパンというチームがいかに成長してきたか、そしてその成長の過程において、人種や国籍の壁をどう乗り越えて、One Teamになることができたのか?トンプソン氏は体力の限界を感じて「ブライトンの奇跡」後の2015年に一度ジャパンからの引退を決意しているが、それ以前にも一度代表を引退しようと考えたことがあったそうだ。それは2011年のW杯後のこと。マスコミも協会も2007年、2011年と二回のW杯で一度も勝てなかった原因の一つに『ジャパン内で「日本人」の構成比が低くなった』ことを理由として挙げたのだ。

 

この時にトンプソン氏の心の中に現れたのがタイトルに取り上げられた言葉である。自分には日本人のハートがある。国籍だって日本だ。それなのに「日本人」として扱ってもらえない。代表選手に対するリスペクトの感じられない、日本協会の言葉に、「こんな協会のために体を張ることなどできない」という気持ちを強く持つようになってしまったのだ。

 

しかし、ここにジャパンにとってもトンプソン氏にとっても救世主とでも言える人が登場した。エディー・ジョーンズ氏である。エディー氏からの熱心な誘いと、復帰後のハードワークの中で「もう一度高いレベルでラグビーがやりたい」という気持ちが芽生え、やがてしっかり根付いて行くのだ。

また2007年のどうしても勝てない状況から、2015年の奇跡、そして2019年の歓喜まで、ジャパンの悪い時期から良い時期の全てを知るトンプソン氏のチーム状況に対する観察眼も興味深かった。

 

2007年と2011年はニュージーランド人のジョン・カーワン(以下JK)氏が監督の任にあった。彼の在任期間では二度の引き分けはあったものの、結局は一度も勝てなかったことで、監督としての手腕を評価する人は少ないのだが、トンプソン氏によると、JK時代に培ったトレーニングの下地があったからこそ、選手たちは次のエディー体制下での様々なきつい要求に耐えることができたのだというのは否めない事実のようだ。文章中にはなかったが、協会内に「外国人の監督を受け入れる」という下地を作ったこと、トレーニングスコッドの招集や選手の入れ替え、そして外国出身の選手の登用など制度面の整備をそれなりに行っておいたことも、後々の躍進の下支えにはなったように思う。そして、ドラスティックな改革と、狂気とまで言われたハードワークで「奇跡」を起こし、新しい歴史を作ったエディー氏。そしてエディー氏の遺産を正の部分も負の部分も全て受け継いで、さらに進化させた現職のジェイミー・ジョセフ氏。長期低迷が続いた後に新しい監督がきて、いきなりチームが好成績をあげることが稀にある。そしてその好成績の基礎となる部分は実は低迷期に作られていたりするのだ。例えば、1981年に藤田新監督の下で優勝した巨人軍で活躍した選手は1980年の「地獄の伊東キャンプ」で長島前監督に鍛えられた若手選手の活躍によるものだったし、星野監督指揮下の2003年の阪神タイガースの優勝だって、1999年から3年間に渡った野村前監督の指導の影響が大きいと言われている。2015年の躍進も、2019年の感動もJK氏の最初の一歩なくしては成し得なかったかもしれないのだ。体制の中にいた選手がいうのだから間違いない(笑)。

 

トンプソン氏にはしばらくのんびりと牧場経営と、家族との時間を楽しんでいただきたい。そして、時期が来たら、ぜひ何らかの形でジャパンの指導に携わっていただきたいものだ。外国出身の選手と日本人たちとの橋渡し役として最適な人だと思うし、何より、彼のスピリットはぜひとも伝承していただきたい。