脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

いかなる理由があるにせよ暗殺は肯定できない 『近代日本暗殺史』読後感

 

安倍晋三元総理が銃撃され死亡されてから早一年余り。世界的に見て治安が安定しているとされる日本においては、近来稀に見る大事件ではあったが、狙撃者山上徹也が事件を起こした背景とされる「家庭連合被害」の問題も含め、早くも風化しつつあるという印象がある。全体的に「平和」で、明日の命をも知れぬという状況の人間がごく少数である現代の日本においては、「普通の殺人」はともかく、政治や経済の要人を狙ったテロはなかなか起こりにくい。要人とされている人の一人や二人殺したところで世の中が大きく変わるはずもないという絶望感に囚われているということもあろうが。

 

著者筒井清忠氏は、標題の書で、明治、大正期に起きた暗殺事件を取り上げ、その背景を詳しく解説することで、日本における暗殺の精神構造を読み解いている。

 

筒井氏の読み解いた、日本人が暗殺という手段に訴える精神的背景は4点ある。

 

1.判官贔屓

暗殺は、名もなき小市民が強大な権力を持つ者を倒すこと。民衆は弱い者が強い者倒すという行為を無批判を応援する気持ちに傾きやすく、こうした目に見えない精神的な支援は大きな追い風となる。

 

2.御霊信仰に由来する非業の死を遂げた若者への鎮魂文化

暗殺者は暗殺の遂行後、自ら命を断つことも多いし、生き残っても社会的生命は事実上断たれることとなる。こうした「非業の死」を遂げた人物は、後の民衆に祟りをなすと考えられてきた。菅原道真崇徳天皇が典型例である。こうした祟りを防ぐための常套手段は「神に祀りあげ」てしまうこと。筒井氏はネットに関しては言及していないが、暗殺者に対してネットに飛び交う「神」などという言葉は、軽々しくはあるものの、まさにこうした祀りあげに他ならない。

 

3.仇討ち・報復・復仇的文化

忠臣蔵を筆頭に、嫌がらせや迫害に対しての怒りを爆発させて暴力的手段に及ぶ、というストーリーは非常に日本人にはウケが良い。

 

4.暗殺による革命・変革・世直し

世を変えるための暗殺であったという理由は世間の支持を受けやすい。

 

この4つは、いずれも日本人の精神に深く根付いている心情であり、取り除くことは不可能であると筒井氏は指摘しているが、これは実にもってその通り。映画やドラマはもとより、具に見たわけではないが、ネット上のエピソードなどでもこの4つに基づいたストーリーはウケが良いようだ。

 

筒井氏はこの4点を踏まえた上で、明治期と大正期以降の暗殺を区分けしている。

 

明治期は暗殺者も被暗殺者も士族であり、「支配階級」同士の争いの結果という色合いが強かった。これに対し大正期以降は被暗殺者は政治家や経済界の大物という支配階級だが、暗殺者は市井の名もなき者に変化していく。そして暗殺の動機も、社会的な悪を葬り去るという大義名分は持ちながらも、実行の起爆剤となるのは個人としての不満(失恋、経済的不遇)だということだ。殺人の目的に良いも悪いもないが、大正期以降は明らかに動機の「矮小化」が見られるのだ。

 

安倍晋三銃撃事件の犯人山上徹也は、まさに個人としての不満を爆発させて凶行に及んだ。自分の今の不遇があるのは母親が家庭連合に入れ上げて、経済的にも心理的にも家族を崩壊させてしまったが故。世界連合を日本に受け入れてのさばらせたのは岸信介だが、実の孫である安倍晋三もまた、家庭連合と結びついて利得を得ている。故に安倍晋三は倒すべきだ。実に短絡的だが、筋としては間違っているとは言えない。まあこういう心情も前述した4点が私の心の中にも深く根付いている証左なのだろう。

 

例えば安倍晋三氏一人を殺したとしても、家庭連合と自民党の結びつきは簡単に揺らぐとは思えないが、狙撃事件によって、今まで「無いもの」とされていた家庭連合をめぐる様々な問題がマスコミによってクローズアップされたのは事実で、カルト規制法に関しての議論も高まったのだから、結果的に山上徹也の「大義名分」は果たせたことにはなる。

 

とは言え、いかなる理由があろうと人を「殺して良い」などということはあり得ない。筒井氏は先の4点と、格差が広がる社会において、個人的な不満が高まる人物、すなわち要人暗殺に関して「理由」を持つ人物が増えるであろうことを踏まえ、暗殺発生の未然防止の難しさを訴えている。「世に暗殺の種は尽きまじ」とでも言おうか。根本的な対策は為政者が世の不満をなるべく少なくしてくことしかないのだが、そんなことができそうな人物はどこを向いてもいそうにない。

 

 

 

 

観る側の準備は着々と進んでますよ 『ラグビー知的観戦のすすめ』読後感

 

2015年のワールドカップメンバーで最後の最後にキャプテンを外れたものの、最後までジャパンを引っ張り続けた廣瀬俊朗氏による、初心者よりちょっと上のラグビー観戦者向けのラグビー蘊蓄本。2019年の日本開催のラグビーワールドカップを前に上梓された一冊だが、4年も積ん読したままだった。

 

時期的なこともあって、各チームの大まかな戦力分析と、各プールの予想にかなりの紙幅を割いている。ジャパンを予選プール二位通過と予想していて、準々決勝でオールブラックスと当たった場合にどうなるか、というところまで書いてあったが、結果的にジャパンは予選を4戦無敗のトップで通過し、準々決勝で南アフリカに2015年のリベンジを果たされた。まあ、当時の戦前予想ではアイルランドに勝つことは難しいと考えられていた(私もそう思っていたので、アイルランド戦の勝利にはビックリしたのだが)ので、順当な予想だろう。私にとっては何度目かの「本は買ったらすぐ読むべき。情報は日々風化していく」という感想ももたらされた。

 

その他の内容には親切に、素朴な疑問に答えてくれている、という印象を持った。

 

中でも、ラグビーの起源から、どのようにサッカーと枝分かれしたか、ワールドカップの開催がサッカーよりも大幅に遅れた理由、ラグビーの「国代表」にさまざまな国出身の選手たちが存在する理由などの解説は非常にわかりやすかった。この辺、私は薄ぼんやりとした知識は持っていたものの、どういう歴史的背景で、今のラグビー界の姿になったかということについて確たる知識を持ち合わせていなかったので、大いに役に立った。

 

その他、ラグビーではとりわけ重視される「キャプテンシー」、すなわちチームの中でキャプテンがどのような役割を果たすのかについての記述が興味深かった。このキャプテンシーという言葉も内容は曖昧模糊としている。チームの状態やメンバーの特性により、キャプテンがなすべき言動・行動は変わってくるので、「これぞキャプテンシー」というのはなかなか定義するのが難しい(というより不可能)のだが、廣瀬氏はこのキャプテンシーの「見える化」に取り組んでいくという。この試みがどのように進んでいくのかには大いに興味があるので、何かのイベントがあれば是非参加したいし、書籍が出れば買って読みたいと思う。もしかするともう出ているのかもしれないが。廣瀬氏の著作は積ん読リストにいくつかあるので探してみよう。

 

いずれにせよ、W杯を観戦する前には読んでおいて損はない一冊だと思う。2023年版のガイド本も出版されてるので、こちらも近日中に紹介したいと思う。

 

 

善悪の判断は先延ばしにするにしても「研究」の必要だけはあると思う 『世界大麻経済戦争』読後感

 

 

ここのところ世間を騒がしているのが日大アメフト部部員の大麻所持事件。もう一つ同時期に朝日大学ラグビー部にも同様の事件があり、ラグビーファンの私としてはそちらの方が気にかかっているのだが、大学の知名度とロケーションの関係か、特に関東地方ではあまり詳しく取り上げられない。

 

日大の事件の方は、大麻所持云々というよりはリスクマネジメントのまずさやら、林真理子理事長の責任問題とかの方に論点がズレていきつつある感があるが、そもそもの問題として、日本ではなぜ大麻を所持することが罪になるのだろう?という素朴な疑問を抱いていたところに、折よくKindleのおすすめ欄に標題の書が掲示されていたので、早速DL。

 

まず、大麻が禁止されていた理由。それは摂取により、人体に様々な不都合が生じるから。大麻成分の中でもテトラヒドロカンナビノール(THC)という物質には、幻覚作用や記憶への影響、学習能力の低下等をもたらす作用があり、これが一番の問題とされている。日本の薬物取り締まりの総本山厚生労働省のHPでは、まずこの危険性が大々的にアピールされている。

 

ところが、世界の潮流は大麻の使用を認める方向に大きく舵を切っている。THCの濃度を0.3%未満に抑えるなどの規制を設けた上で、様々な病気に有効とされ、またリラックス効果の高いカンナビジオール(CBD)のメリットの方に着目して合法化が進んでいるのだ。先進国の中でもカナダはすでに合法化されているし、アメリカも連邦法ではまだ非合法だが、合法化する州が続々と現れ、いずれ連邦法でも合法化すると言われている。

 

高木沙耶氏が議員に立候補した際に公約として掲げた医療用大麻の使用解禁も、CBDの薬効に着目してのものだったのだろう。「元芸能人」につきまとうある種の胡散臭さのせいで、最初から一種の「トンデモ公約」とみなされてしまったが、CBDの薬効が確かならば、あながち暴論ではなかったと言えるのかもしれない。

 

標題の書では、こうした世界の動きの他、産業用の作物としての大麻ヘンプ)の有効性の高さにも着目している。ヘンプは工業用の素材に用いられる大麻のことで、布地に利用されるほか、その繊維の強靭さから、自動車の内装などにも利用が見込まれているそうだ。古くはフォードが採用しようとしたそうだが、その際はアメリカもまだ強固な取り締まりをしていたので、使用できなかったそうだ。病害虫に強く、年間少なくとも3度ほどは収穫できる大麻は農家にとっても「おいしい」作物であるとのこと。また光合成の際に二酸化炭素を吸収するので環境にもやさしい。なんだかいいことづくめの作物で、作らないほうが罪悪なんじゃないかと思わされる(笑)。

 

ただし、THCの危険性は存在し続けるし、こういういけない成分をこっそり売買して儲けようとする輩の発生も予想されることなので、医療用、嗜好用としての大麻の解禁に及び腰な日本政府の考え方も理解はできる。

 

中国やイスラエルは工業用の素材としてのヘンプについての研究を随分と進めているようだし、生産のみならず、販路についても確立を目指しているようだ。一旦販路が確定してしまえば、いざ医療用、嗜好用の大麻が解禁になった場合にその仕組みを用いて流通させられるという目論見を持っての施策。この辺、実にしたたかだ。

 

日本も薬効の研究もさることながら、こうした栽培から販売に至る仕組みについては今から研究を進めておくべきではないだろうか。著者矢部氏も危機感を滲ませているが、今のままでは、いざ全世界的に解禁という流れになった時に日本だけ完全に乗り遅れることが明白だからである。政治家のセンセイ方も目先の選挙のことばかり考えていないで、こういう、少し先に生じてくるであろうと考えられる問題に取り組んでいただきたいものだ。まあ、今は福島の汚染水放水問題でそれどころではないんだろうけどね。

 

 

 

 

興行的に大コケしたのが納得できる作品 『バビロン』鑑賞記

 

 

主演にブラッド・ピッドを配し、『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼルが監督を務め、アカデミー賞狙いで製作されたのが標題の作。人気者とヒット作の監督とのコンビは大いに期待を持たせたが、興行的に大コケし、制作費を回収することができないという体たらくに終わった。

 

原因ははっきりしている。とにかく面白くなかったのだ。

 

描いているのは、サイレント映画の晩年と言って良い時代。いわゆるトーキーが出現し、時代の趨勢はそちら側に移りつつあった時代だ。

 

ブラピが演じたのは、無声映画で絶大な人気を誇ったジャック・コンラッド。彼は観衆からの支持を背景に、撮影所で絶対の権力を誇り、毎晩毎晩それこそ酒池肉林の乱痴気騒ぎを繰り広げる。

 

そこに一枚噛んでくるのは野心家の「女優見習い」ネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)。彼女も、セクシーさと物おじしない行動を武器にスターの座にのし上がっていく。

 

絶好調の彼らの前に立ちはだかるのが「時代の波」、すなわち、トーキーの登場だ。

「黙って」動作だけしていれば良い無声映画と違って、トーキーではセリフを含めた「総合的」な演技が要求される。俳優の声というのも重要な要素だ。無声映画では観衆が勝手に「理想の声」を設定して字幕の言葉に当てはめることができたが、トーキーは当然のことながら俳優の生の声が観衆に届いてしまう。「理想の声」とのギャップが、どうしても生じてしまうというわけだ。

 

というわけで、「総合的な演技」を要求されることになったジャックは、今までとはあまりにも違う環境に大いに悩む。妻に、ブロードウエイのミュージカル女優を迎え、彼女の指導でセリフの特訓に臨むが、うまくいかない。イラついて妻に八つ当たりするものだから、夫婦関係もギクシャクしていき、その憂さを晴らすためにジャックは荒れた生活を続け…、というふうにストーリーは展開していく。

 

ネリーはそんな時代の波になんとかキャッチアップし、それなりの成功を掴むのだが、酒やら薬、そして賭博に溺れて多大な借金を背負い、にっちもさっちも行かない状態に追い込まれる。自業自得とはいえ、人間の弱さみたいなものはそれなりに体現できていたように思う。また、彼女が主役となって演じられる、トーキー初期の、映像と音声を一致させるための、スタッフの涙ぐましくも馬鹿馬鹿しい「努力」を描いたシーンがこの作品の中では一番印象に残った。

 

同じような時代を描いた作品としては、10年前の『アーティスト』がある。こちらは作品賞をはじめとして5部門でアカデミー賞を獲得したが、確かに『アーティスト』の方がよくできた作品だった。主人公の苦悩に絞ったストーリーの方が素直に心に刺さったと思う。『バビロン』の方はいろんな要素を盛り込もうとした結果、余計なノイズが増えすぎて、論点がぼやけてしまった感がある。その辺のもどかしさが端的に現れたのが興行成績の不振だったと言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

スペシャル感はそれなりにあったものの、ツッコミどころも多々あった作品 『七人の秘書 THE MOVIE』鑑賞記

 

TV朝日のドラマの映画化作品。

 

表向きは企業重役の秘書として働きながら、裏では企業や大物政治家の暗部を暴き、制裁を加えるというそれなりに考えられたフォーマットに、木村文乃菜々緒広瀬アリス大島優子といった人気者たちがキャスティングされているのだから、テレ朝としては「ヒットしてもらわなければならぬ」作品。一応映画化もされたのだから、テレ朝の狙いは当たったものとみなしてよかろう。

 

連ドラ作品の映画化の場合、レギュラー作ではなかなか実現し得ないスペシャル感がキモとなる。今作のスペシャル感を醸し出していたのは、まずキャスト。

 

信州を牛耳ろうとする悪の親玉九十九道山に笑福亭鶴瓶。道山と確執があり秘書軍団のリーダー千代(木村文乃)との恋愛模様も描かれる緒方航一に玉木宏、七菜(広瀬アリス)と結婚する予定が、挙式寸前に失踪した九十九二郎に濱田岳。誰をとっても主役を張れるだけの俳優を贅沢に起用している。

 

物語は七菜が仲間たちに結婚報告をするところから始まる。相手はマッチングアプリで知り合った長野の雷鳥牧場の主、九十九二郎。雷鳥牧場は長野県に一大勢力を誇る雷鳥グループが経営しており、二郎はその次男。九十九家の屋敷で行われる、結婚式に出席するために千代ははるばる長野の山奥に出かけていくのだが、途中山道を徒歩で行くところがいかにも不自然。いかに旧家で山奥にあるとはいえ、財閥の家なのだから、そこまでの道は当然整備されていて、車で向かうのが自然だと思うがね。まあ、この山中のシーンで千代が航一と出会うという演出なので仕方がないが、不自然さは残った。

 

結婚式に出席したはいいが、花嫁の七菜を残して、新郎の二郎は失踪。しかも雷鳥牧場が火事になっているという一報が入り、結婚式どころではなくなる。ここでも一つ不自然さが。七菜も千代も結婚式のドレスのまま、徒歩で牧場に向かう。普通は手早く普段着に着替えて、自動車なり、スノーモービルなりに乗っていくと思う。ある程度のコミカルさを意図した演出だったとは思うが、明らかにリアリティーを欠いてしまっていて不自然さだけが残った。

 

で、火事の原因はわからず、二郎も失踪したまま。失意の七菜もさることながら、牧場の従業員たちも路頭にまよう羽目に。そこに救いの手を差し伸べたのは雷鳥グループのドン九十九道山。しかし救ったとは名ばかりで、劣悪な条件下で過酷な労働を強いる職場に放り込んだだけだった。こんなことを端緒に秘書軍団が調査を進めていくうちに道山のドス黒い野望が明らかになっていき、最後には秘書軍団が怒りの鉄槌を下す、といういつものお約束パターンに入っていく。ただし、最終盤にはもう一捻り加えてある。この辺はスペシャルならでは。

 

終盤戦の大立ち回りは、道山が雷鳥牧場の跡地に複合リゾート施設を建設することを発表する場から展開するのだが、その立ち回りの前に、雷鳥牧場の元従業員たちが道山に詰め寄るシーンも不自然。警備のヤクザものたちに事前に叩き出されるのが関の山。その辺は秘書軍団がうまく対処したのだという説明も成り立つが、従業員たちが乱入してきた時点で警備のヤクザものたちが有無を言わさず排除するというのがギリギリのリアリティー。従業員たちが口々に道山の悪行を言い切ってしまうまで待っているなんてことはあり得ない。

 

で、大立ち回りのどさくさで道山は数人の護衛と共に車で逃亡を図る。これを不二子(菜々緒)らがスノーモービルで追跡し、車の前に回り込むのだが、逃亡に使った車は、スノーモービルの一台や二台、ぶっ飛ばしてしまいそうな頑丈さだ。それなのに道山一味は車から降りて徒歩で逃走することを選ぶ。仮に逃げおおせたとしても、酷寒の信州の山の中では凍死する危険性の方が高いというのに。

 

私の見方がヒネクレに満ちたものであることは認めるが、あまりにも現実から乖離してしまうと、ストーリーに集中できない。キャストもストーリーそのものの出来も悪くなかったとは思うので、ちょっとその辺が残念だった一作。

 

 

 

ニコラス・ケイジと船越英一郎はやっぱり似ている 『マッシブ・タレント』鑑賞記

 

 

アメリカ映画界の船越英一郎ことニコラス・ケイジが「自分自身」を演じたコメディー映画。

 

つい最近まで船越氏は『テイオーの長い休日』という、やはり自分自身を演じたドラマに出演していた。船越氏演じる2時間ドラマの帝王熱護大五郎が、自身が過去に演じたキャラクターに成り切って、いろんな事件を解決していく、という筋立てのこのドラマ、なかなかに面白かった。また、レンタルDVD屋でこの作品の煽り文句を見て、業界での立ち位置が似通っていると、周りの人間が考えることも似通ってしまうのだろうか?そんなことが頭をよぎり、ニコラスがどんな「自分自身」を演じるのかに興味を惹かれて借りてきて視聴開始。

 

ニコラスはかつては多数のヒット作に出演していたが、ここ数年はヒット作にも恵まれず、自分が満足できる役のオファーも途絶えていた。おまけに私生活では夫婦関係が破綻しかけており、娘からも反抗されている。娘からの反抗はともかく、ここ数年のニコラスは結婚しては短期間で離婚をするというわけのわからん行動を繰り返しているので、そこまで踏み込んでパロディーにして欲しかった気がするが、本人役とはいえ、あくまでも「架空」のニコラス・ケイジを演じているというテイなので致し方なし。本人もそこまでリアルにパロって欲しくはなかっただろう(笑)。

 

出演作はなくても派手な生活をやめられないニコラスには多額の借金があった。そこに舞い込んできたのが、多額なギャラが保証された、スペインの大富豪の催すパーティーへの出席という「営業」。俳優としての本分に反すると一度はオファーを断ったものの、借金取りからのプレッシャーには勝つことができず、渋々ニコラスはパーティー会場であるスペインのマヨルカ島へ向かう。

 

マヨルカ島で待っていたのは、熱狂的なニコラスファンである大富豪ハビ。ニコラスのファンであるだけでなく、映画を深く愛していることが窺い知れるハビとニコラスは意気投合。深い友情で結ばれることとなる。

 

ところがハビの従兄弟は違法薬物の取引を取り仕切る、暗黒街の顔役。違法薬物の取り締まりを厳しくしようとしている政治家の娘を誘拐して、選挙への出馬を辞退させようと画策していた。娘の奪還と組織の壊滅を目指すCIAがニコラスに接触し、スパイとしての活動を要求してくる。ということで巻き起こるさまざまな騒動を、アクションスター、ニコラスがどのような「演技」で解決していくか、というのが大まかなストーリー。先に挙げた熱護大五郎とは違い、特定のキャラクターに「変身」するわけではないが、これぞB級映画の大御所とでもいうべき、チープながらスペクタクルなシーンが連続する後半部分は悪くない仕上がりだった。

 

こういう、「最後は収まるところに収まる」というストーリーを演じさせた時のニコラスは流石に安定感を感じさせる。逆にいうと、ニコラス主演の映画というのは収まるところに収まるという結末が予想されてしまって、興醒めしてしまうことが少なくはないのだが。

 

 

 

一般人の尺度では測れないアーティストたちの行状 『不道徳ロック講座』読後感

 

Yahooがよくやっている、書籍抜粋企画をチョイ読みして衝動DLして一気に読んでしまった一冊。ロックミュージシャンたちのぶっ飛んだ行状を蒐集してある。

 

章立ては「性」、「薬」、「酒」、「貧乏」の4つ。最後の貧乏だけちょっと位相が違う気もするが、貧乏を原因とした不道徳な行為の数々があったということで、一つのカテゴリーとしたようだ。いずれか一つを「極めた」人物もいれば、いくつもの章に登場する「合併症患者」もいる。

 

この本の「主人公」と言えるのがミック・ジャガー。言わずと知れたローリングストーンズのボーカルだ。薬、酒に溺れる姿もあったし、ローリングストーンズ発足当時はバンドメンバー全員が貧困のどん底にあり、食うためにちょいちょい悪事を働いていたようだ。しかしなんと言ってもすごいのが「性」に関する数々の逸話。自分の彼女だけでは飽き足らず、バンドメンバーやらミュージシャン仲間の女に手を出すことがしょっちゅうあったそうだ。それこそ手当たり次第、見境なし。いい女だと思えば、すぐに恋愛感情を持ち、メイクラブに及ぶ。恋愛が成就すれば刹那的な快楽が得られるし、実らなければ、その苦しさを吐露することが優れた作品につながる。実に羨ましい。何しろ本人は欲望のおもむくままに行動すればいいだけなのだから。手間暇もお金もかかるが、返ってくるものがとにかくでかい。で、本人はそういう行動にヤリガイを感じている。これ以上の幸せはない(笑)。

 

ミックのすごいところは、女だけでなく、男も恋愛の対象になるということ。デビッド・ボウイとはボウイの女房をめぐって恋の鞘当てを演じることになるのだが、その一方で、ミックとボウイも関係してしまうのだ。「普通の三角関係」は一人の異性をめぐって二人の同性同士が争うものだが、この三角関係は3人それぞれが通じ合ってしまっているという非常に不可解なものになってしまっている。いやはや。不倫とかなんとかいう言葉や概念では理解しきれない行動は、まさに常識はずれ。そうでなきゃ、ロックの歌詞やメロディーなんか浮かんでこないんだろう。

 

もう一人、性、ドラッグ、アル中の三冠王を達成しているのがエリック・クラプトン。彼はジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドを恋するあまり『いとしのレイラ』という曲まで作って、ついにはパティを自分のものにするが、自分自身も寝取られたこと多数。それでも寝とった相手のライブに参加してギターを奏でたりもしている。人がいいというのか、肝が据わっているというのか。この数々の恋の迷走が、彼のギタープレイや、曲作りに大いに良い味わいを与えているようだ。ドラッグ、酒に溺れて、矯正施設入りしたことも幾度となくある。周りの人々のサポートに恵まれたエリックは現在でも世界最高のギタリストの一人として多くのファンを魅了している。

 

本の腰巻には「不倫で自粛なんかするわけないだろ!」という煽り文句が躍っているが、現代の日本では、1件でも何か不祥事を起こせば、本人が自粛しなくても勝手にメディアが干してくれる。

マイナスイメージをまとうことを嫌うスポンサーが広告の契約を打ち切るのはまだ理解できるが、消費者の反発を買うことを恐れるあまり、メディアまでもが、アーティストたちのスキャンダルにはかなり神経質になっている。まあ、一般人が気楽に情報発信できる昨今では、何が地雷かわからないという恐怖があるのは理解できないでもないが、それにしても、店頭からCDが一斉に撤去されたり、過去の出演作品が配信されなくなるなどの措置まで取られるのはいかがなものか、とも思ってしまう。罪は罪、作品は作品という姿勢を見せるメディアなり、小売店なりがいてもいいような気がする。私は少なくとも作った本人の行状がどうであれ、いいと思った作品の鑑賞をやめようとは思わない。「芸能」の、特に表現に関わる人たちは常識の尺度では測れない存在であるからこそ、優れた作品を残すことができるのだという考え方には一理あると思うし、一般人には優れた作品を味わう権利があると思う。なんでもかんでもすぐに自粛みたいな風潮には少々違和感を感じる。