脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

LGBTQ問題はあらゆる意味で現代社会の問題の縮図 『LGBTの不都合な真実 活動家の言葉を100%妄信するマスコミ報道は公共的か』読後感

 

 

ゲイであることを公表し、参議院議員時代からLGBTQの方々を取り巻く様々な事象に対して、日本社会へ問題を提起し続けている松浦大悟氏が、日本の現状を概観している一冊。同性婚憲法のレベルで認められるべき問題で、改憲を行うべきだというものすごく大きな問題から、ゲイのカップルがラブホテルで嫌われるのはなぜかという下世話な話題まで、文字通り多種多様な切り口で「不都合な真実」を紹介するとともに、様々な問題に関してのご自身の「立ち位置」も明言されている。

 

この本を読了して数日後、私にとっては実に印象的な出来事があった。『阿佐ヶ谷アパートメント』という番組の「ギャル部屋」という括りの部屋に「本物」の若い女性と一緒に、女装した男性が「ギャル」として入っていて色んなコメントを発していたのだ。いつ頃までの話だったか明確ではないのだが、ホンの30年くらい前までは、「おすぎとピーコ」のお二人は同性愛者であることを理由にNHKには出演できなかったはずなのに、今更ながら時代は変わったんだなぁ、と感じさせられたのだ。

 

私の青春時代は、女装したり、いわゆる「女性言葉」を使ったり、日常から「女性らしい仕草」をしているような男性は「オカマ」として明確に嫌悪される存在だったのだが、今時の若い方々には「同性愛者は『普通』とは違う。『普通』と違う自分を確立していることはカッコいい」とする風潮があるそうだ。もちろん、強烈に忌み嫌う人々も少なくはないが、どんな属性を持つ人間に対してもアンチは一定数必ずいるもので、ここ30年くらいで世間全体の嫌悪感の閾値は著しく下がったと言って良い。

先ほど私は前時代的に乱暴なニュアンスを込めて「オカマ」と一括りにしたが、現在では男性の体を持ちながら性自認が女性である方、異性愛者でありながら女装したり化粧したりする方、性転換手術を行い、身体的にも法律的にも女性になった方など、実に様々なカタチで自身の性を世に示すことがいることがわかった。生物学的に「女性」として生まれてきた方も然り。中には性的なアイデンティティーを確定させない方も存在する。近年のアンケートや各種メンバー登録などでは性別につき「回答しない」という選択肢を設けてあるのが大半だし、そもそも性別を問うことがなくなったりもしている。

 

世にダイバーシティーという言葉が流布し、各人の多様性を認めた上で、その属性による差別をなくしていこう、という大きなムーブメントの方向性は間違っていないとは思うが、実際にはLGBTQの皆様にとってはまだまだ「一般人」との間には高くて厚い壁が立ちはだかっているようである。例えば同性のパートナーは「普通」の夫婦と同じ権利は認められていない自治体が大半だ。集中治療室に入れない、本人の意識不明時に「家族」として意思を表明することが認められないなどが法的かつ端的な例で、特に人々の意識のレベルではまだまだLGBTQの方々への理解は「普通と違う性的指向の持ち主」程度のものにとどまっている。

もちろん私も理解の浅い人物の一人だ。親しい方にLGBTQの方がいなかったので、彼ら彼女らを理解する機会がなかったというのが一番の理由。業務の関係で新宿界隈を回っていた際に、たまに二丁目の近くにある得意先に行くと、ある種独特の雰囲気を勝手に感じて、居心地の悪い思いをしたことがあるくらいだ。統計的にいうと人口に占める同性愛者の割合というのは3%程度程度だと推測されるというのを以前何かの本で読んだ記憶があるが、その割合でいくと、四十人のクラスに一人は同性愛者がいるという計算になる。私は男子高校の出身なのだが、当時のクラスメイトの顔を思い浮かべてみても、ピンと来ない。まあ、異端視されてきた歴史が長かったが故に、広言することが憚られたということもあるのだろう。ちなみに社会人になってから、雑誌の記事で「動く同性愛者の会」のことが取り上げられていた際に、同会のその当時の主要な地位の人物としてインタビューを受けていた人物が、私の一学年下の代の生徒会長だったことには驚いた。

 

思い出話が長くなってしまったが、LGBTQの方々に対しての社会一般の差別的意識は、容易に別の尺度の差別につながりやすい危険性を孕んでいる。学歴、所属企業、居住地、出身地等々。今のところこれらの要素は、精々お笑い芸人がネタにしている程度だが、どんなきっかけで、差別を受ける差異に転じてしまうかわかったものではない。そういう意味で、誰もが現在のLGBTQの皆様がおかれているのと同じような立場に立つ可能性があるのだ。彼ら彼女らの戦いを見届けることには一つのケーススタディとしての意味もある。のみならず、真の平等とは一体どんなものなのか、を考える大きな契機となる。あえて言わせてもらうが、LGBTQという「異端」の存在を考えてみることで真の理想的な社会の姿を模索し、その構築に向かう大きなムーブメントにつながっていくのではないだろうか。

 

ただ、この「理想の社会」って奴は主義主張によって様々に異なってしまうから始末に追えないという側面もある。左翼は左翼で、リベラルはリベラルで、保守は保守で、それぞれ考えていることが違い、その主張にLGBTQの権利保護の動きを利用しようとする企みをそれぞれの団体や政党が持っていたりする。「活動家」たちの言葉を絶対の正義として報道し続けるマスコミの姿に対して松浦氏が批判的な立場をとっているのは、こうした風潮故である。

マスコミの報道を絶対の真実として盲信する方は流石にいないであろうものの、一定の影響力があるのは事実で、報道に対して常に懐疑的であらねばならぬというのはLGBTQの諸問題に限ったことではないが、他の話題に比べ、少々情動的な力が働きがちであるようには思う。とりあえず、私自身は、もしLGBTQの方々が身近に現れたら、性的指向の問題は一旦脇において、その人の人柄を注視した上で付き合い方を決めていきたいと思う。みんな人間であることだけは変わらぬ事実だ。

34個の悪あがき方法 でも本当のやる気の出し方は自分で編み出すしかない 『やる気のスイッチ!』読後感

 

 

二時間半にも及ぶ通勤時間(片道)。一日の仕事を終えて、「普通の本」もコミックも、ゲームすらやる気になれない時に、Kindleの溜め読リストの片隅で見つけたのが標題の書。

 

最近は、本当につまんない会社の仕事に時間ばかり取られて、自分が本当に望む姿に至ろうとする努力にまで手が回らなくなっている。自分のやりたいことがやれないから欲求不満も焦りも生じて、ココロが毎日疲労困憊状態。そのまま次の日の会社の仕事に取り掛かろうとしても、やっぱりやる気が出ないので、さっぱり進まない。以前読んだ本に書いてあったが、人間というのは「やったこと」よりも「やれなかったこと」に対して疲れを感じるのだそうだ。会社の仕事、文筆家としての仕事両方ともにやれていない「負債」ばかりが嵩んで、にっちもさっちもいかないというのが現在の状況。

 

やる気はやり始めないと出ない、ともいう。しかしながら、その最初のきっかけをなかなか掴むことができずに「業務負債」の泥沼に沈んだ毎日を送っているとでもいうべき現状を打破するきっかけの一つも載っていないかと、藁にも縋る想いで、昨日の帰途に読み切ってしまった。

 

内容については是非とも本文をお読みいただきたい。34個の方法(あるいは考え方)が述べられているので、どれか一つくらいはヒットする方が大半なのではないかと思う。

 

私は一つの「方法」と一つの「考え方」に引っかかった。

 

「方法」は心の中にあるモヤモヤを全て紙に書き出してしまうというもの。この方法、実は私はすでに実践している。とにかくいろんな制限を全て取っ払った上で、心の中のわだかまりを全て紙に書き出してしまうのだ。会社の仕事のことでもカラダの不調のことでも、ロシアの軍事行動のことでも中田翔の二軍落ちのことでもなんでもいいから、とにかく書く。書くことで脳に「作業興奮」という状態が出来して、徐々にやる気が出てくるし、紙に書くことで、内容が整理されて、それだけで解決策が見つかってしまうことだってある。というわけで、私の机の上には雑多な書き込みのある紙が散乱している。大半はノイズやクズだが、とりあえず二穴フォルダに閉じておいて、時折見返したりもしている。一週間前と同じことでまだモヤモヤしてるわ、とか、あ、そういえば今日のこの状態と全く同じことを以前はこんなことで脱出したんだっけ、などというのを発見することもある。

 

まあ、私のやる気の出し方の「定番」と言って良い方法だ。ただし、この方法は私の場合本当に状況が深刻な際は「何かに書き出す」ことすら億劫になってしまうので、絶対の特効薬というわけではない。そういう深刻な時には後先を考えず、何もかもほっぽり出して休んでしまうことにしている。できないときはどう頑張ったってできない、ということも「やる気の出し方」を模索している中で見つけた事実ではある。最近は「休んじゃえ」っていう内なる声が発生することが多頻度になりつつあるが(笑)。

 

「考え方」の方は「嫌いな人間」についてのもの。

 

ある人間を嫌いだと感じるのは、その人間に「自分の嫌な部分」を見出しているからだそうだ。

あはははは。おっしゃる通り。こりゃ一本取られたねぇ(爆)。

私が今最も嫌いな人物は、同じ職場の腐り脳筋弱り毛根バカだが、こいつは英語学習に際し、私が提案した方法を全くやってみようともせず、「なんでもいいから週に一時間くらい英語の講義をしてください」などという要求を突きつけてきて、その非礼さを咎めたら「言い方が高圧的だから教わる気にならない」などということを平気で言ってしまう非常識極まりない野郎だ。

 

つらつら考え直してみると、私も周りの方々に同じ思いをさせたことは多々あったんだろうなと、苦笑を禁じえなかった。とともに改めてこの腐り脳筋バカを反面教師として自分の行動を省みていかないといけないとも感じた。脳筋バカの無視は継続中だし、今後も相手にするつもりは一切ないが、「我以外皆師」という気持ちだけは持ってこいつの行動から「学ぶ」ことは続けていきたいと思う。

 

結局、やる気の出し方は各人各様なので、絶対的な方法があるわけではない。そんな方法がもしあるなら、私が本でも書いて出版してやる。さぞかし売れることだろう(笑)。この本の中の方法が自分に合えばそれは幸運なこと。本の中の方法はあくまでも参考にするという姿勢で、自分自身にあった方法をカスタムメイドする、というのがこの本の「正しい使い方」だろう。

 

 

 

 

清濁併せ呑む度量を持ち、聖と俗の間での経験も積んできた二人による「文章」をめぐる対談集 『文章修業』読後感

 

 

私はつい最近会社がつくづくと嫌になったことを直接のきっかけとして、文筆業に本格的にシフトしていくことを決意した。以前から考えていたことでもあり、また実際にちゃんとギャラの出る(ものすごく安くはあったが…)ライター活動に勤しんでいた時期もあった。早速二つほどのWebサイトの募集に応募して、ちゃんとギャラの出る活動を始めることとなったが、この二つのサイトからの収入だけではとてもじゃないが食っていけるほどの額にはならない。スーパーの品出しでもやっていた方がよほど金になる。銭金の問題じゃないという部分は少なからずあるが、さりとて銭金の問題を全く無視して生きていけるほどの資産があるわけでもない。

一番の理想は、多数の読者の皆様に喜んでいただける作品を書いて、執筆料と印税で食える作家になること。その一助とすべく、本棚の片隅から引っ張り出したのが標題の書。

 

前半生を奔放に生き、後半生はその波乱の前半生から得たものと、帰依した仏教の世界とを融合させ、小説のみならず説法でも人々を魅了し続け、2021年11月に99歳で大往生を遂げた瀬戸内寂聴氏と、小僧として寺に修行に出されたものの、その辛さに耐えられず出奔した経験を持ち、俗世間に戻ってから大学で文学を学び、文学青年からそのまま小説家になったような経歴の水上勉氏とが、お互いの半生を語り合いながら、どのようにして小説に魅せられ、自ら書き綴るようになったのかを明らかにしていく一冊。

 

さて、本は好きなんだけど偏食本読みである私はお二方の作品はろくに読んだことがない。唯一覚えているのは水上氏のそれも食に関する随筆集である『土を喰らう日々』だけだ。

 

 

それも『美味しんぼ』の野菜の旨さを語るお話の中で紹介されていたことで興味を持ったから読んだのだ。というわけで、私はこのお二方の作品について事細かに語れるほどの知識は持ち得ていない。というより全くもっていないといった方が良いだろう。

 

標題の書の中にはお互いが自著に触れた部分もあり、読んでみたいと思った作品がいくつか見つかったので、是非とも読んで、実際の表現を学びたいと思う。

現時点で私がこの本を読んで学んだことは三つ。

まず一つは、お二方共に、やりたいと思ったことをちゃんと実行しているということだ。とにかく書きたいという衝動を満たすために何しろ書く。作品の形にする。売れるとか売れないとかそんなことは二の次三の次。どれだけ傷を負おうともとにかくまず書いた。そして、自分の文章がある程度世に認められてからは、「売れる作品」を求める編集者の意向に逆らって、あえて、売れ行き的にはシンドい「純文学」に転向していった。ここでも自分のやりたいことを貫いている。

第二に他人の目でチェックしてもらうことは非常に有効だということ。水上氏は宇野浩二(この方も知らん…)氏の口述筆記を請け負い、改めて清書して宇野氏のチェックを受けるのだが、どのように推敲するかを具に観察し、それを自身の文章に活かしたと語っている。優れた文筆家は一体どのような観点で作品を満足のいくものに仕上げていくのか、その過程を見られるというのは非常に幸せなことでもあるし、自然と身につくテクニカルな部分もあるだろう。水上氏のケースとは異なるが、私も、これからは自分の書いた文章を、必ず他者の目から見てもらう機会を得るので、そこでいただいた意見はその時々のみならず、それ以降の自分が書きたい作品を書くときに活かしていきたいと思う。

三つ目。「小説は事件ではなく、人間を描け」という言葉。これは松本清張氏の作品が書くもの書くもの全て大当たりし、推理小説というものの需要が高まっている際に、ピンチヒッターとして起用され、推理小説を書き続けていた水上氏に、とある編集者が投げかけた言葉である。出来事の羅列では新聞や雑誌の記事と変わらない。小説を小説たらしめるのはある事件の背後にある人間の行動であり、考え方だ。そこまで踏み込めた作品は人々の心に響く。まあ、これは小説に限ったお話ではなく、映画、ドラマ、コミックに至るまで「表現」されるものに共通しているお話だ。そこまで踏み込むのが至難の技であるゆえに、「名作」はなかなか生まれないのだし、いざ生まれれば後々の世まで受け継がれる「古典」となっていくのだ。

 

あーあ、また書く前からハードル自分で上げちゃったよ。こうやってハードル上げちゃ、結局飛び越えられないって悲観して落ち込んで書けなくなって、やけ酒飲んで肝臓壊して死亡墓参りって悪循環に陥るんだよ。一番肝心なことは、まず始めること、そして決して諦めないこと。ましてや自分が好きで飛び込もうとしている道なのだから、挑戦しない理由も諦める理由もないはずだ。

忙しなき日常から逃れてしばしカオスの世界に遊ぶための短編 『令和の雑駁なマルスの歌』読後感

 

 

この本の読後感を書くにあたり、はたと考え込んでしまった。

 

『令和の雑駁なマルスの歌』というからには『○○時代の統一性のあるマルスの歌』とでもいうべき存在があるはずであり、試みに「マルス」という言葉をググってみたら、変なスーパーマルスフードショップ株式会社やら本坊酒造やらJRの発券システムやらなんやら出てきて訳が分からなくなってしまったので、「マルスの歌」で再度検索をかけてみたらシンプルに『マルスの歌』という作品がヒットした。

 

無頼派、または独自孤高の作家とも称される石川淳氏の作品で発表当時は反軍国的な作品だとして発禁処分を受け、罰金刑まで課せられた作品だとのこと。町田氏の『令和の雑駁な〜』には反戦の匂いなど微塵もなく、いじけた男とそのいじけた男の手柄を横取りにしてしまうことで調子良く出世して行った男との間で揺れ動く女を、横で見ているだけのはずだった小説家がこの三人のカオス的な恋愛模様の中に巻き込まれて呆然としている様が描かれたのみだったので、本家『マルスの歌』とはどんな作品だったのだろうと大いに興味が湧いてしまい、早速Kindleで検索してみたら、『焼け跡のイエス 善財』という作品集に収録されていることがわかったので、即時に買い求めようとしたら、なんとこの作品集は1500円以上もするのだ!

 

ちょっと逡巡したが、いやいや文学作品の価値は書籍の値段ではかれるものではない、お前はたかだか1500円の金を惜しんで文学作品に触れようともしない卑しい心象の持ち主なのか、という自己批判の気持ちがムラムラと湧き上がってきた。一方で、いや生きていく上でカネはなくてはならいものだ、じゃあおカネさえあれば愛はいらないっていうの?愛なんてものを信じられるほど、もう若くないさと君に言い訳したね〜、などとしまいには『いちご白書をもう一度』のメロディーまでが頭の中で流れ出す始末で、結局そのせめぎ合いは愛の方に軍配が降り、作品集を買い求めて本家『マルスの歌』を読んでみることにした。

 

 

考えてみたら石川淳氏の作品に触れるのはこれが初めて。本好きが嵩じて文学部に行ったくせに芥川賞作家の作品すら読んでないのかよ、おい?そんな体たらくでモノの書き手になりてーだと?物書きなめてやがると、コンクリート抱かしたまんま東京湾に沈めるぞ、ゴルァーと、私の中のネガティブキャラが暴走し始めたので、伊藤美誠がいわゆる「美誠パンチ」を放つ際の踏み込みの強さ並の力を無理やり引っ張り出して、『マルスの歌』を読み進めた。

 

驚いたことに、両者の文体は同じ人間が描いたのかと思えるほど似ていた。町田氏の「出自」がパンクロッカーであり、文章に盛り込まれる様々なノイズが味わいとなっているのは理解できるのだが、幼き時代より論語素読を叩き込まれたような一流のインテリである石川氏の文体も、統一性が高いどころか町田氏に負けず劣らず雑駁で、読者をある種の不安状態に追い込むところはよく似ている。常に「自分が理解している(はずの)文章の意味は、本当に私の理解の通りなのだろうか?」を自問しながら読まないといたたまれない思いに駆られるのだ。文章を読んでいて浮かんでくるノイズはノイズのまま感じるのがいいのか?それともそのノイズには隠された意味があるのか?考えれば考えるほど、ええか?ええのんか?おまー!!という鶴光師匠の絶叫のみが頭の中にこだましてしまうのだ。

 

とりあえず、両者を比較して感じたのは、町田氏の作品が、和歌でいうところのいわゆる「本歌取り」に当たるのだろうな、ということ。二つの小説は筋書き的には非常によく似ているのだ。同じような設定、同じような状況を踏まえた時に、石川氏がこう書くのなら、私はこう書いちゃうぞ、だってこっちの方が今っぽいんだもん、題名に「令和」って文字も入れちゃってるしね。町田氏がギターをかき鳴らしながら、あるいはステージ上でヘドバンしながらシャウトしつつも頭の中では今日はどこで飯食って帰ろうか、とか、布袋の野郎は許さないけど、タッパの高さがあるから実際にもう一度喧嘩しても不利だな、とか冷静に考えながら、文章を練った末に書いた一作なのだろうと想像してしまう。

 

両作ともにその時代の「常識」で考えれば、あり得ない状況を描いてはいるが、実際に起こる可能性もなくはないという結末になっている。石川氏の作品は当時の国の体制に反旗を翻したと判断されて罪に問われたというのは先述した通り。町田氏の描いた結末は、罪に問われることはないだろうが、「世の常識」に背いているという意味では「同罪」ではある。ただ、町田氏の描いたような結末に「世の常識」の方が近寄っていくという可能性は十分に考えられる。今の若い奴らは、という言い方はしたくはないのだが、少なくとも平成を経て令和という時代に突入した今の世のマジョリティーにとっては「ああ、こんなことが反社会的だと思われた時代があったんだ」と感慨に耽る作品になるのかもしれない。私が、石川氏の作品を読んでそう感じたように。

支離鬱々日記Vol.152(お題にのってみる)

ここ数年、私が奉職する企業は英語の学習に熱心だ。海外の会社を買収したこともあるし、もとより海外より輸入した商品を扱っていることもあり、どこやらの企業のように社内の公用語を英語にしようとまではいかないが、とりあえず、英語を喋る人から電話がかかってきても、失礼のない対応くらいはできるようになろう、という意図のようだ。

とはいえ、対策の方はお寂しい限り。一応年に3回くらい行われる会社主催のTOEICのうち最低1回は受験すること、と定められてはいるのだが、別に受けなくてもお咎めはないし、悪い点を取っても「勉強する暇がありませんでした。仕事が忙しくて、テヘペロ」で済んでしまっている。数年前に英語学習のコーチ役のようなものを仰せつかった際も、時の上司からは「皆仕事が忙しいんだから、あんまり負担になるようなことはしないで、うまく引っ張ってってください」などという曖昧模糊とした指示を受けた。この瞬間、経営層の思いは全然末端まで届いていないことを痛感した。とりあえず、申し訳程度にやっておけばいい。1回でもTOEICを受けたという実績さえ残れば、点数はどうでもいい。実際にこの上司も流石に試験そのものは毎回受けてはいたが、点数はさっぱり伸びてなかった。私が見ている限りでも全く勉強している雰囲気もないし意欲も感じられなかったのだから当たり前だ。上司がこうだから、とりあえず言い訳づくりのために「みんなで勉強する機会は作りました」みたいなことをやってお茶を濁そうとする腐り脳筋弱り毛根バカのようなやつが出現してくるのだ。で、こういう奴に限って、いざ「この課題を来週までに仕上げてくること」などという指示を出すと、「強制されたことをやっても身につきません」とかいう尤もらしいクソ生意気な口を叩く。こういう奴こそ上司の権限でガチガチに点数を管理して、強制的にでも勉強させりゃいいんだが、上司も嫌われたくはないし、下手すりゃパワハラで訴えられる危険性まであるということで、一番暇な私にお鉢を回してきたというわけだ。結果、私の提案した方法で、ちゃんと勉強した私を含む数名の点数は伸びたが、部署全体の点数は伸びてないし、伸びるどころか、おそらく毎回ダウンしてるんじゃないだろうかと思う。腐り脳筋バカみたいなやつをいつまでも甘やかしておくからだ、ヴォケが!!

 

いかんいかん、腐り脳筋弱り毛根バカのことを言い出すと、ついつい悪口雑言ばかりが並んでしまう。お題の主旨は、もし英語が自由に話せたらどうするか?ということだった。


今の私なら、実際の仕事に使う。とは言っても今の会社の今の部署にいては英語なんぞ使う機会は滅多にないから、英語を使うことが前提の仕事に転職する。翻訳業(特に映画の字幕とか)でもいいし、塾の英語講師でもいい。通訳という手もあるし、空港とかの税関に勤めるという道もある。英語の勉強法についての本を書くってのもいいな。

 

実際に田舎への転居が決まった時に、田舎で学習塾やTOEIC対策塾の講師をやろうと半分本気で考えた。それゆえ多少なりとも勉強に気合が入ったために点数がアップしたという事実もある。TOEICテスト対策認定講師の資格を取ることは今でも真剣に考えている。一応最低の条件である830点は取得したが、胸を張って「認定講師でございます!!」と言い切るには900点くらいは必要だろうと勝手に思い込んでいるので、今年の目標は900点奪取においてはいる。
早速5月の末に試験が控えているのだが、残念ながら今は実際に仕事が忙しくてなかなか手をつけられていない(笑)。ただ、腐り脳筋弱り毛根バカと同類に括られるのだけは、自分自身のプライドが許さないので、仕事はきっちりやった上で、ちゃんと英語でも成果を出してやるつもりだ。

 

その上で、「会社の仕事がつまんなくて嫌になったので辞めます」と思いっきり言い切って、上司に辞表を叩きつけてやりたいと思う。かなり歪んではいるが、私が英語を自由自在に操れるのであれば、是非とも実現したい。これは荒唐無稽な夢ではなく、それなりに実現可能な未来である。こんな駄文を書いている暇があったら、勉強に費やせばなんとかなるはずの未来だ。と言いつつもライティングの副業も始めたりはしているが(笑)。

 

 

 

なかなかに痛快な大逆転劇 『スイング・ステート』鑑賞記

 

 

スティーヴ・カレルの顔が写っていたので、ジャケ借りしてきた一作。アメリカのど田舎の小さな町で繰り広げられる町長選挙に関わるドタバタを描く。邦題となっている『スイングステート』とは、大統領選において民主党共和党の勢力が拮抗し、どちらに転ぶかによって選挙戦の行方を大きく左右する州のことをさす。主人公ゲイリーは、共和党のトランプに敗れた民主党ヒラリー・クリントン選挙参謀を務めた人物で、早くも次回の選挙戦に向けて、今回は敗れたウィスコンシン州民主党の地盤を固めるべく、YouTubeで人気の出た退役軍人ヘイスティングを町長選に担ぎ出そうとディアラケンという田舎町に乗り込む。

 

いきなり、民主党の大統領選に関わった「大物」の登場に戸惑うヘイスティングとその家族、仲間たち。しかし、ゲイリーの熱心な説得に突き動かされる形で、出馬を決意するヘイスティング。彼は出馬にあたってはゲイリー自らが参謀を務めることを条件とした。これが後々の大きな伏線となるので、鑑賞の際にはぜひ心に留めておいていただきたい。

 

さて、選挙参謀となったゲイリーは、大統領選で培ったさまざまなテクニックを発揮してそれこそ草の根から支持層を掘り起こし、選挙戦を優位に進めていく。途中で、劣勢の報を聞いた共和党もやはり大物選挙参謀フェイス(ローズ・バーン)を送り込んでくる。というわけで、時には隠密裡に、時にはTVの画面で派手に罵り合うなど選挙戦はますますヒートアップしていき、選挙の行方を大きく左右する寄付金の額もどんどん釣り上がっていく。

 

そんなこんなでようやく投票日。最初は絶望的なほど支持率に差があったが、選挙前日にはややヘイスティング有利が伝えられるほどまでに拮抗していた。そして投票が締め切られ、結果が出た…。

 

ここからの展開がこの作品のキモとなるので、ぜひ本編をご覧いただきたい。「勝者」の描き方には驚かされること請け合いだ。

 

その後には、コメディーであるはずのこの作品を一気にシリアスにしてしまうシーンもある。ヘイスティングの娘ダイアナの長台詞でこの作品が一番皮肉りたかったモノはなんだったのかということがはっきりわかる仕掛けが施してあるのだ。

 

「四年に一度だけ馬鹿騒ぎをしにきて、その後は知らんぷり」荒っぽく要約するとそういう主旨の言葉を吐くのだが、これは日本の選挙区にも当てはまるお話だ。選挙の時だけ、取り巻きを引き連れて、知り合いのタレントを引っ張り出してお辞儀と握手をしまくって支持を訴えるが、一度当選してしまえば、後はほったらかし。自分達の暮らしを良くしてもらうために付託した「権力」は変な方向に使われ、潤うのはほんの一握りの連中だけ。アメリカと違って、日本の場合は寄付金集めは主な活動にはならないので、同じ逆転劇は間違っても起こらないが、何か住民の溜飲が下がるような出来事が一つくらいは起こって欲しいものだ。沖縄の米軍基地問題なんかはその最有力候補なのだが、住民の大多数が県外移設に賛成し、それを具体的政策に掲げている人を知事に選んでいるというのに、国は強引に県内への移設を推し進めて、押し切ってしまった。まあ、あそこに基地があるからこそ中国や北朝鮮、最近で言えばロシアの脅威に対抗できているというのも事実なので、「県民がいろんな不利益を被るから出てってほしい」ということだけでは動かせない複雑さはあるのだが。

 

この作品のように、「笑い」の衣で包み隠しながら、最後の最後で鋭く斬り下げるような言葉の刃を現状に突きつけるような映画は出てこないものかなぁ…。出てくるのは自分の体の一部の突起物を押し付けるような真似をする監督や俳優ばっかりだもんな…。

名優三人の競演に負けないだけの名作コメディー 『カムバック・トゥ・ハリウッド!!』鑑賞記

 

 

ロバート・デ・ニーロトミー・リー・ジョーンズモーガン・フリーマン、という主役級の俳優三名をフィーチャーしたのが標題の一作。1982年に製作された『The Comeback Trail』という作品のリメイク作。

 

ロバート・デ・ニーロの役柄は映画プロデューサー、マックス。彼はレジーモーガン・フリーマン)という映画好きのマフィアから金を借りて『尼僧は殺し屋』という作品を製作するが、カソリック信者たちからの猛反発を食って、映画館の前で上映中止を求めるデモまで起こるという体たらくで、興行収入はほとんどゼロ。

 

とはいえ、そんな事情を斟酌しないのがマフィア、レジーのマフィアたる所以。とにかく「借りたカネは返せ。さもなきゃ、保険金かけて殺すぞゴルァー!!」とばかりマックスに追い込みをかけてくる。

 

困り果てたマックスは映画プロデューサーとしては弟子にあたるも、現在のハリウッドでは羽振りの良いジェームズに金を借りようとするが、ジェームズは首を縦にはふらず、マックスが長年温めてきた傑作『パラダイス』の脚本を売り渡すことを提案してくる。製作者の意地としてこれだけは譲れないと頑張るマックスだったが、マフィアのプレッシャーと甥でもあり、制作会社の共同経営者であるウォルターの説得にも負けて、泣く泣く脚本を売り渡すことを決意。

 

上機嫌のジェームズは、自分が現在製作しているアクション映画の現場にマックスとウォルターを招待するが、撮影の最中に、主役の俳優が転落死してしまう。しかし、保険をかけていたジェームズには大金が転がり込む。いわゆる焼け太りという状態を見たマックスが思いついたのは、俳優に保険金をかけ、撮影時の事故で死なせてしまうことで保険金を得、レジーへの借金を返すとともに『パラダイス』を製作するための資金とすること。

 

というわけで、殺されるために主役に起用されるのは往年の西部劇のヒーローでありながら、現在は落ちぶれ果てているデューク(トミー・リー・ジョーンズ)。

 

ここからが、ドタバタコメディーの本番。マックスはあの手この手で事故を「演出」するのだが、デュークはことごとくその仕掛けを掻い潜り、生還を果たしてしまう上に、却ってその迫真のシーンが映画に予想もし得なかった迫力を与えていく、という筋立ては、俳優に保険金をかけるという展開になった時点で薄々見当がついた。あとは、この筋立てをどう面白く演出していくか、が勝負になるのだが、この作品概ね全てのシーン面白かったように思う。企てがことごとく失敗して、仕掛け人たるマックスに思いっきり跳ね返ってくるという展開はベタだが、ハマれば強力だ。この辺のシーンに関しては下手にストーリーを説明するよりは実際に観ていただくしかない。

 

最後のちょっとした人情噺的なハッピーエンドシーンまで含めて、良い仕上がりであったように思う。この作品には流石にバッドエンドは似合わない。メイン三人のギャラが莫大で、セットその他にはあまりカネがかけられなかったんだろうな、っていう画面の貧弱さが少々残念だったが、マックスのしみったれた感じを出すための演出の一環だったと好意的に解釈しておく。