脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

支離鬱々日記109(いろいろ突っ込んじゃいます)

10月に郷里へUターンするので、地元の自治体への転職を考えている。

 

ただいま願書受付の真っ最中。昨日ほぼ一日かけてエントリーシートと、自己PRを書き上げて、本日提出予定だ。

 

書類を書き上げるのに丸一日もかかってしまった理由は二つ。まずは内容を考えるのに乏しい脳みそを搾り上げたこと。改めて我が身を振り返ってみると、まあ、アピールすることの少ないこと、少ないこと。アピールできるとすれば、営業での実績と購買でのコストカットくらいしかない。この「実績」は行政の場で活かせるものなのか?という疑問が何度も何度も浮かび上がってくるのを必死で払い除けながら、なんとかPC上のワープロソフトにアウトプットした。

 

ここからが時間を食った。このご時世だというのに、提出書類は手書きで作成しなければならないのだ。書き文字が汚いと言われることがコンプレックスの一つで、字を手書きする必要がないというのを最大の理由に、大学入学即ワープロを購入し、文書の手書きなど久しくしていなかった私にとっては、手書きでの文書作成は拷問に等しかった。実際に最後の方は手に震えが来て、ただでさえ汚い文字がより幼く、汚い文字となってしまった。書き間違えでもしようものなら、改めて書き直さなければならないという恐怖感から、なんとか書き間違いだけはせずに書き上げたものの、我ながら50歳すぎた人間の書く文字ではないなという感想を持たざるを得なかった。この、文字の汚さだけを理由に書類選考で落とされても仕方がない(苦笑)。

 

まあ、書く文字をその人間の本性を判断する一助にしようとする考え方には一理あるが、こんなものはさっさとソフト上での作成可にして欲しいものだ。実務上は手書きの書類なんぞは絶滅しているはずだ。もし首尾よく転職が叶えば、まず第一にこの点から改めてやろうと思う(笑)。

 

一回目の職域接種でモデルナ製のワクチンを打たれてから一週間ほど経過した。接種二日後に微熱と頭痛が出て会社を休んだ。なんだ、ワクチン接種くらいで体調が悪くなるとは、俺も歳食ったもんだ、などと思っていたら、副反応が出ている人間は案外多いようだ。私の周りだけでも3名聞いたし、うち2名は接種翌日に38度を超える熱が出たという。体内の組織が若く、抵抗力が強いほど強い副反応が出るとも聞く。私の副反応は実に微妙なものだ。これも一つの年相応ってことになるんだろうか?

 

コロナといえば、五輪は、開催か中止かの議論がいつの間にかフェードアウトし、観客を何人入れて開催するか?という議論にすり替わってしまった。

 

緊急事態宣言解除後の東京ではリバウンドが起こっているし、まだまだワクチン接種も行き届いていない。またワクチン接種が進んでいたイスラエルですらも再度のロックダウンを余儀なくされている。欧州選手権が行われたサッカー場で2000人が感染したとの報道もある。全ての状況は「#五輪なんかやってる場合じゃない」ことを指し示しているように思う。故に私個人としては五輪は中止すべきだと思うのだが、政府並びにオリンピック組織委員会の皆様は、なし崩し的に強行開催に踏み切った。もしやるとするなら、VIPまで含め完全無観客で、スタッフの数も極限まで絞り込む必要があろう。そこまでして開催する意義はなんなのか?結局は金主であるNBCの意向には逆らえないということか?いかに契約があるとはいえ、一国の政府がたかだか米の一企業に勝てないのか?金メダルの数を競う前に、根本的な「国力」を整えるべきだった。

 

最近、仕事中に音楽を聴くのも少々飽きてきたので、早朝は情報収集もかねてラジオを聞くことにしている。私の郷里はAMはTBSラジオ以外入らない田舎だったので、馴染みのある『スタンバイ』を聞いているのだが、ニュース番組なので扱うネタは毎日違うのは当たり前として、まあ、BGMから番組の基本的な構成から、20年近く全く変わっていない。ラジオのメインユーザーである高齢者にとっては、こういう不変性こそが安心なのだろう。私も、ある種、老舗の味のようなこういう不変性の方が心地よくなりつつある。

 

さて、本日のスタンバイを聞いていたら、途中で大沢悠里氏がご自身監修の↓の商品を紹介するCMが入った。

 

 

私はこの番組が大好きだった。それこそ私が小学生の頃からやっていた番組で、小沢氏一流のややお下品なユーモアに満ち溢れたこの番組は、当時の夕刻を彩ってくれていた。で、早速これは買い求めねば!と思い立ち、ネットで検索をかけてみたら、みるサイトみるサイト「現在品切れで、次の入荷の予定が立っていないため注文できません」という文句が並んでいる。CMまで流しておいて、なんだよ、この始末は?意図したものではないにせよ、結果的には「品切れ商法」と思われても仕方がない状況だ。CMの差し替えは簡単にはいかないというのは理解できるのだが、こんなところまで不変を貫かなくてもいいわ!

 

 

支離鬱々日記108(家買うシリーズ15 建築の進行状況と水回り設備の決定)

早いもので、今年の6月もすでに終盤。新居の完成まであと3ヶ月である。

先々週の中頃くらいに上棟式を済ませた、と建築会社から連絡があった。え、施主が出席しないまま上棟式ってやっちゃっていいんだっけ?屋根の上から餅撒いたりしないんだっけ?まあ、近所付き合いの密度が薄まった昨今の風潮もあるし、それこそ今はコロナ禍下で人々が群がるような状態を演出することは自粛すべきだということもあるので、施主不在で済むものは粛々と進行していただいて結構なのだが…。

 

そんなわけで、昨日現地に行って、進捗状況を見てきた。

 

もうすでにハコの骨組みは完成。壁、床はまだ仮設の状態で、二階部分にはまだ手が入っておらず、見学は不可。それでも大体の空間把握はできた。今まで設計図上、すなわち二次元でしか認識できていなかったものが、ようやく三次元のレベルに文字通り立ち上がってきたというところだ。前回訪問時は、所々に鉄筋が突き出た状態の土台しかできていなかったので、かなり工事が進んだことを実感。ウッドショックにもめげずに調達いただいた木材君たちが立派に家の骨組みを構成してくれていた。

 

現場で建築会社の方と、当家の親戚筋である設計事務所の社長と、実物をみながらの打ち合わせ。今までポカンと聞いていただけだった構造物だったが、「現物」が目の前にあれば、実感することができる。百聞は一件にしかずとはよく言ったものだ。

その後、浴室、洗面所、トイレ、キッチンのいわゆる水回りの設備を決定するため、設計事務所の社長ご推薦の水回り設備製造会社のショールームへ。

 

ショールームはかなり混雑していた。聞けば昨今の状況下で外出機会が減った分、考える時間も増えたし、遊興費に回す予定だった原資も浮いてきたしで、特に改築を考える方は増えているのだという。水回り関係は確かに一番気になるカテゴリーではある。ざっと表示金額をチェックしてみたら、くつろげる風呂場、綺麗なトイレ、使い勝手の良いキッチン…、いずれも小金があればなんとかなる設備でもある。子供が小学生くらいの、比較的若い年齢層の家族連れが多かったような気がする。

 

さて、当家の選択は、ほとんど設計会社の社長氏が勧めてくれたモノに従った。こういう時に持つべきものは、やはり経験に裏打ちされた豊富な知識と知見を持つ目利きのアドバイザーだ。最近のビジネス書では「Know How」よりも「Know Who」を重視すべし、という主張がなされることが多い。ある事柄につき、自分で一からスキルを学ぶよりも、必要とされるスキルに優れた人を探し出してきて、その事柄を任せてしまう方が合理的だという考え方だ。当家にとってはまさにうってつけの方が親戚筋にいたわけで、思いっきりその恩恵に預かった形だ。

 

設備会社の方は、必要最低限のスペックのものを提示した上で、見栄えが良かったり、ちょっとした便利機能のある追加設備を見せて、チリツモでの売り上げアップを目論んでくる。トークもそのために練られているので、うっかり聞いていて、派手に見えるオプションを選び続けていったら、当初の想定予算よりすぐに二割り増し、三割り増しのコストになってしまう。少なくとも家の中なんぞは、渡辺篤史氏のターゲットにでもされない限りは、大々的に公開する類のモノではないので、見栄えの良さを気にする必要は全くないし、「あったら便利」的な数々の装置もホームセンターあたりで代替品はすぐに見つかる。本当に必要になったら後からでも設置すれば良い。大体使ってみもしないうちから、何が必要か、なんてのはわかるはずがないのだ。

 

てなわけで、後述するいくつかを除いては、全て標準という名の最低スペックを選択。その場所に相応しい機能が備わっていれば、別に見てくれを気にする必要はない、というのは私と最高権力者様の共通認識だったのですんなりと決着。正式な見積もりは建築会社を通じて送られてくるそうだ。

まあ、キッチンは最高権力者様の主戦場だし、洗面所に関してもせいぜい髭剃りと洗顔にしか使わない私よりは最高権力者様の活用度の方が格段に高い。彼女の意見を最大限に尊重した仕様でかつ追加料金なしの発注になった。

 

風呂に関しては、半身浴を積極的に取り入れたいという私の意向で、浴槽の中に腰かけられる段差のあるものを選択した。どうせ料金も変わらないし(笑)。壁の一面だけは、社長氏のアドバイスで、追加料金は発生するものの、小洒落た感じのものにした。

 

二箇所あるトイレのうち、来客も使うであろう一階のものは蓋と便座が自動開閉するタイプ(これも追加料金対象だった)、主に私と最高権力者様だけが使うであろう二階のものは、標準の自動開閉なしのものを選択。最高権力者様はペーパーの収納設備(追加料金発生対象)に未練を見せたが、社長の「その辺はしつらえにしなくても色々方法はあるよ」という一言で、なしに決定。今後は壁に穴を開けようが、柱を切り倒そうが、原状回復義務はないので、必要なものはどんどん後から取り付けていけばいいだけ。無制限に取り付け続けるととんでもないことにはなりそうだが…。

続々と具体的なピースが決まり、いよいよ、家というシロモノの実像が見えてきた。母の介護や、今後の都心部への通勤など、課題は山積みだが、今のところは自分の城を持つことができる、という高揚感の方がそうした不安を上回っている状態だ。

 

引き渡しの日程もほぼ決まったので、月明けからはいよいよ本格的に転居の準備に入ることとしたい。

主張するところは、かなり難度の高い理想論だが、挑戦してみなければ何物をも得られないというのも事実『金持ちフリーランス貧乏サラリーマン』読後感

 

 20代でフリーランスに転じ、現在もフリーランスとして働き続けるとともに、そのサクセススキルを「人生逃げ切りサロン」という会員制のサロンで公開もしているやまもとりゅうけん氏の、題名通りの一作。サラリーマンで居続けることのデメリットと、フリーランスのメリットを徹底的に比較している。

 

氏は、「資本主義経済における評価の尺度はいかにお金を稼ぐことができるかである」と断言し、1円でも多くのお金を稼ぐためにはどうしたら良いのかを簡潔ながら力強く語っている。私なりにごくごく荒っぽく要約してみると以下のようになる。

 

1.サラリーマンとして成功する(多額の収入を得る)ことができるのはほんの一握り。

多くのサラリーマンは時間を切り売りするという非効率な方法でしか金を得ることができず、時間の切り売りをしているうちは、得られるお金は低いまま。

しかもサラリーマンという身分は、時間以外にもさまざまな制約があり、非常に生きづらい。

2.フリーランスは自由な働き方が可能。

もちろん巨万の富を得ようとするならば、それなりの苦労は必要だが、「逃げ切る」すなわち、一生不自由ない生活を送る程度のレベルの収入を得続けていくのはさほどハードルの高いお話ではない。

さまざまな「保障」もないという不安要素は常に付きまとうし、勤務する企業の「格」から得られるステータスもないが、それでもがんじがらめに縛られて、非効率的な時間の切り売りを強制される生き方に比べれば、自由度ははるかに高いし、得られる利得も多い。

3.フリーランスとしての武器は「専門性」とそこから発展した「影響力」。

一般大衆に広く受け入れられるようなスキルやネタではなく、特定の分野部門で必要性の高い技能や知識を身につけておくことが肝要。その特定の分野で実績を積み「影響力」(人々の行動を変えさせるような力)を持つことができれば、仕事は自然と回ってくる。

 

4.最終的な理想形は自らが手を下さなくても、仕事が完結する仕組みを構築してしまうこと。

すなわち技能的に信頼のおけるフリーランス仲間に仕事を委託していき、仲介料をもらうという方法だ。先に述べた「影響力」を身につけることができれば、技能の高いフリーランス仲間は自然と集まってくるそうだ。もちろんその仲間たちの仕事を担保する目利きとしての修練を積むために自らも難度の高い業務に携わり続けることは必要。

 

で、影響力を得るためにはどうしたら良いか?手持ちのお金を貯金に回すのではなく、自らのスキルアップや可能性の追求に使用しなさい、というのがその答え。

そしてスキルアップの具体的なノウハウについては「人生逃げ切りサロン」に参加して学んでね!!というなかなかに上手い誘導がなされている。読む人にあからさまなセールストークであると感じさせずに、自然と「俺も参加してみようかな」という気持ちにさせてしまうあたり、「影響力」の使い方に関してはかなり手慣れたものを感じる。決してネガティブな意味ではなく、「フリーランスへの転身についちゃ検討の余地は十分にあるな」と考えさせる契機をくれたのは事実だ。まあ、私が地方移住を決め、「このままの勤務形態で良いのか」と真剣に考えるための「参考書」として目についた本なのだから、そうした契機になってくれなければ困るシロモノではあったが…。そういう意味では見事に期待に応えてくれた一冊ではあった。

 

この文の題名にも書いたとおり、物事は「やってみなけりゃわからない」。私は会社生活においては、世間一般で通用するようなレベルのスキルは全く身に付かなかったが、文章を書くことを嫌とは感じない根性の悪さ(笑)と、役立たずで雑多な知識はゴミ屋敷並みには持っている。この「資産」をどう活かして、人生を逃げ切るに足る文筆業者になるか、については挑戦していきたいと思う。

なおやまもと氏は、フリーランスで食える目処がつくまではセイフティーネットとして、会社に勤務してくことも推奨してくれている。両親公務員の一人息子として、「企業に奉職して安定した収入を得ることこそが最大の幸福」という信仰を叩き込まれながら生きてきた身としては、いきなりフリーランスになってしまうことは、それこそキリスト教徒からイスラム教徒に宗旨替えするような重大な決断になる。

当面は「仮面浪人」として、会社にぶら下がり続けようとしている私の姿勢を肯定してくれたことにもなる(笑)。

文筆業者へと向かう「本気度」のレベルを一段あげてくれた一冊だった。

 

 

 

支離鬱々日記107(ワクチン接種とちょっとした気付き)

昨日、第1回目のワクチン接種を受けた。

 

接種に関しては全く問題なし。職域接種だったせいで、混雑も、見知らぬ人々と隣り合わせることの「恐怖感」もなく、粛々と進行して完了した。注射そのものはほぼ痛みもなかった。筋肉注射ってこんなに痛まないものだっけ?と少々拍子抜け。

 

帰宅してからが少々大変だった。こういう健康問題には人一倍臆病な当家の最高権力者様が、さまざまな断片的知識を総動員して、副反応や後遺症の恐怖を延々と語り、昨日は22時には床につくことと、今朝は起床後すぐに体温を測ることを命じられた。まあ、昨日は時差出勤のため4時半起床だったので、言われなくても眠気は襲ってきてはいたが…。「夜中に容体が急変して、いきなり死んでたりしたらどうしよう。新居をはじめとした遺産は相続対象が一人しかいないから問題なし。問題があるとすれば、SNSやら携帯料金のパスワードの類か。ああ、そういうこともきちっとしとかないと、死後余計なカネ払わされ続けるんだよなぁ。どうやって管理しようか?あ、そうだ、俺の実母の介護やら看取りもあるな」などと死に直面したら考えてはおかないければいけないことが様々に頭を駆け巡ったが、いつの間にか意識がなくなっていた。

 

今朝起床後の気分はいつもと変わらず。特に何か不都合なことも感じなかったし、体温は36.2度とズバリ平熱。左腕を動かすと若干の痛みはあるが、まあ、これは筋肉注射の後には必ず起こることだ。少しでも熱があったら、「ワクチン接種のせいか、少々体調がすぐれませんので、お休みをいただきます」とバックレるつもりでいたのだが、その目論見は完全に外れた(笑)。まあ、今日一杯くらいは様子見しなければならないだろうし、二度目の接種後の方が副反応も強いらしいから、油断せずにいたいとは思う。

 

先日、接続がうまくいかずにイライラしていたが、やり方を変えたらうまくいき、今のところポータブル音楽プレーヤーとしては役に立っているものの、ミニコンポとの接続はうまく行っていない、と書いた↓のデバイスの後日談。

 

 

なんとか手持ちの円筒形コンポ(JVC NX-SA55 古い機械なんで、アマゾン検索では出てこない)との接続も成功させたいといろいろ試行錯誤してみた。

 

私の最終的な目的は瀕死のiPodClassic120GB君に収蔵されている、110GB程度の曲(14,500曲ほど)をどこかに移植し、それをポータブルの機器でもミニコンポでも聴けるようにすること。いらなくなったデバイスは手放して断捨離につなげたいという思いもあった。

 

まずはPod野郎というフリーソフトを利用してiPod君の中身を一度全て128GBのマイクロSDに移植。そのマイクロSDはそのまま問題なくFIIOM5で使用可能。

 

で128GBをぶち込んだM5を改めて円筒形コンポに接続してみたのだが、コンポちゃんは文字通り沈黙したまま、ディスプレイには「USB READ」の文字がずっと提示されているだけ。

 

それでは、と今度はマイクロSDカードリーダーを購入して、コンポちゃんに接続してみたが、やはり無慈悲な「USB READ」が示されたまま。沈黙に耐えられない私は、今度は今後のことも考えて1TBのUSBメモリを購入して、コンポちゃんに装着してみた。やっぱり拒絶の姿勢は変わらない。交通違反を見つけた白バイ隊員の頑なさもかくやと思うほどの圧倒的な強固さの「USB READ」が表示されたままだ。

 

おいおい、新参者のマイクロSDリーダーはともかく、64GBのUSBメモリはちゃんと受け入れてくれたじゃねーか?なんで僕の熱意をわかってくれないの?ストーカー化する一歩手前くらいの心理状況になった私は、コンポちゃんの全てを知りたいと思い、ネットでマニュアルを検索して、USBメモリに関連する場所を隈なく読んでみた。

 

すると…見つけたのだ、決定的な嫌われ条件を。

 

曰く「USB機器の容量は16GB以下を推奨します。」

 

要するに今までの私の行動は、人間的な本性の問題で嫌われているのに、高価な贈り物をすることで気を引こうとする、金持ちのボンクラ息子がやるような勘違いだったわけね。64GBのUSBを読んでくれたのは、ただの気まぐれなワンナイトカーニバルだったわけね。

 

ちょうど手持ちに16GBのマイクロSDがあったので、適当に曲を放り込み、SDカードリーダーにはめて、コンポちゃんに優しく挿入してみた。果たして、曲は、ちゃんとかかった!次にM5君にマイクロSDを装着し、コンポちゃんと結合してみたら、こちらも曲が再生された。ただし、M5君の方はなぜか1曲ごとに曲の再生がストップしてしまうという謎は残った。

 

いずれにせよ、ようやく目的は果たせた。我流を押し通すのではなく先例や手順をきちんと学ばないとうまくいかないこともあるのだということを深く再認識した一件だった。

 

なお、SDまたはUSBだと曲名が表示されないので、好きな曲やアルバムを選ぶことができないため、コンポちゃんとiPod君は死が二人を分かつまでのパートナーであり続けることが決定した。今回のデータ移植を機に、今まで最高権力者様のWindowsPCのiTuneと同期していたiPod君は私のMacminiのMusicと同期することになった。

 

そして私の手元には、行き場を失った1TBのUSBメモリが一つ居候することになった。まあ、このデバイスの使い道はこれから増えていくことでしょう。

支離鬱々日記106(お題に乗っかってとりあえず今欲しいものを列挙してみる)

今週のお題「100万円あったら」

 

何度も書いているが、当家は10月に郷里に移住する事になっている。もう上棟式も済み、外枠はできたので、あとは「家」としての体裁を整えていく事になっている。「ウッドショック」などという木材価格の急騰で少々資材調達には苦戦していたようだが、なんとか間に合わせてくれたとのこと。感謝の言葉しかない。なお、今週末には水回り関係の設備の見学に行き、最高権力者様の意向を最大限に尊重した品々を選んでくる予定である。

 

で、本題。生活に必要な家具や家電製品を除き、私の趣味的生活において資金面の問題やら、最高権力者様の反対やら(要するに今の手持ちのもので機能的には足りているのだが、もう少しいいものが欲しいという類のモノ)で調達が難しそうなものを列挙してみる。

 

1.オーディオセット

凝ったものを揃えたらこれだけで100万でも足りないが、10万くらいの予算で、ハイレゾ対応+USB機器使用可能なコンポが欲しい。ちょっとアマゾンで検索してみたら、該当する機器は4万円台くらいからあるようなので、10万も出せばそれなりの性能のものが手に入るだろう。これは書斎において、仕事中ずっと音楽を聴くために使用したい。今でも円筒形のミニコンポは持っており、これはこれで場所も取らないし、音もまあ許容範囲ではあるのだが、せっかくなら、いい音が出せるやつが欲しい。せっかく一軒家で、今までよりは音量も気にしなくて良い状態になるのだから。

 

2.自転車

冬場の風は少々きついものの、アップダウンがほとんどない新居の周りは自転車を最大限に活用できるロケーションである。自転車を買うことはほぼ決まっているのだが、最高権力者様がどうもいい顔をしない。大きな買い物は車ですればいいし、近所の買い物には徒歩で行けばいい、というのが彼女の理屈なのだが、中学、高校とどこにいくにも自転車、という生活をしていた身にとっては、郷里の道といえば自転車で走るものという意識が定着している。ちょっと離れた場所にある、大型のショッピングモールや、その中にあるジムなどには自転車で通いたいし、最寄り(とは言っても5km以上離れている…)駅までの通勤手段に使うという手もある。これもせっかくなら少々いいやつが欲しい。少々減量したとはいえ、100kg超の超肥満体が乗るのだから、頑丈なやつでないと困る。最近は、パンクしないタイヤなどという代物も登場しているようなので、その辺を選択肢に入れて考えたい。これは店頭で実際に現物を見て買う事にする。サドルの高さやブレーキの調整やら、保険の加入やら、現場で頼みたいことはいくらでもある。こちらも予算は10万くらいかな。

 

3.北杜夫全集

北杜夫氏の没後弟子を勝手に名乗っている身としては、やはり「師」の全集は揃えておかねばなるまい。一応電子書籍で手に入る書籍は全て手に入れてはいるのだが、書斎の本棚に、ドカンと並べてあったらちょっと格好いいと思う。残念ながら新刊本はすでに世になく、中古本を購うしかないのだが、価格にはバラつきがある。今までに見た最高額は4万。中古本には状態の良し悪しがどうしてもつきまとうし、真新しい本棚に傷物を並べたくないのはヤマヤマなのだが、世に存在しないものを追い求めても仕方ない。

 

4.Yogiboの一番でかいやつ

 

 

これも書斎において、ちょっとしたリラックスタイムに使いたい。以前にどこかのTV番組で使い方を紹介していたが、横にしてまたがるような形で使用すれば小型のノートPCくらいなら安定した置き場として使えるようなので、仕事にも使える。

 

5.プロジェクター

今のところ、TVはリビングにしか置く予定はないので、寝室、または書斎で映画などを観ようとすると必要となってくるのがプロジェクターだ。ポータブルな小型のもので良い。アマゾンで検索したら2万円台くらいからあるようだが、これもでかい家電量販店で色々説明を聞いてから買いたい。

 

※追記 先日の水回り設備選択の帰り道で、「そろそろ冷蔵庫も洗濯機も買い換えなきゃね」、という話が最高権力者様から出たところで、「いい機会だから、寝室にDVDなんかを観るためにプロジェクター置きたいんだけど…。TV本体を買うより安く済むし」と切り出し、価格的なお話もしてみたら、なんのことはない、すんなりとOKが出てしまった。思いっきり拍子抜け(笑)。寝床の中で映画が観られるというのは彼女にとっても魅力的なお話だったらしい。

 

6.コミックの大人買い

極力電子版のやつを買いたいが、例えば永井豪氏や水島新司氏の作品などは、まだ少なくともkindle化はされていないので実物としての本でも仕方ない。まあストック場所だけは事欠かない(笑)。

ドカベン』全シリーズ

つい最近完結し、作者水島新司氏も漫画家としての引退を表明した。今のところ『大甲子園』だけは文庫本版で全巻持っているが、他のシリーズは買い揃えないといけない。最初の『ドカベン』、『ドカベンプロ野球編』、『ドカベンスーパースターズ編』、『ドカベンドリームトーナメント編』を全部全巻揃えると、合計で大体200冊、7万円くらいの計算になるが、新品では揃わないかもしれない。全巻セットだったりすると、逆にプレミアがついたりするかもしれないので、少々高めに見積もっておく必要がありそうだ。

『バイオレンス・ジャック』
永井豪氏の発表した作品の全ての登場人物が登場して、血みどろの戦闘を繰り広げるのがこの作品。特に、結末は衝撃的だった。このシリーズも残念ながら電子書籍化はされていないので、実物を手に入れるしかない。中古の18巻全巻セットで1万円前後。なお、私が個人的に永井豪氏の最高傑作と考えている『デビルマン』は文庫本版を全巻持っている。

 

ゴルゴ13
今のところ、kindle化されているのは200巻まで、1冊600円として12万。そのうち30冊くらいは持っているから10万強。これは流石に「100万やるから自由に使い切れ」とでも言われないと買う決心はつかない。

 

カムイ伝』『カムイ外伝
全38巻で4万2000円ほど。これは少し前にkindle化された。忍者アクション漫画としての『カムイ外伝』のアニメから入ったのがこの作品だが、後に『カムイ伝』を読んだ際のラストの苦々しさ、悲惨さには大きなショックを受けた。まあ、こちらについては月毎に1冊づつ買い求めていくという手もある。いずれは手に入れておきたい作品だ。

 

リングにかけろ』『リングにかけろ2』
両シリーズ合わせて44巻、2万2000円程度。すでにkindle化されている。少年ジャンプの黄金律「正義・友情・勝利」を確立させ、後の400万部突破の礎となった歴史的一作。作品の内容もさることながら、資料的価値も高いと個人的には思っている。

 

今のところの概算合計は53万円ほど。夜の街での遊興費とか投資とかに使うと100万なんぞすぐに消えてしまうカネだが、いざ欲しいものを買い求めて使い切ろうとするとなかなか使いデがある。今の生活で十分だということの証左でもあるのだが。

 

さて、残った40数万をどう使うか?今年は永年勤続のご褒美休暇が1ヶ月ほどもらえるので、数年前から二度目のイタリア旅行に行こうと漠然と思っていたのだが、このご時世では外国旅行どころか国内旅行もままならない。でも無理矢理国内旅行でどこかに行くことにすると仮定し、どこに行きたいかを考えてみた。

 

第一候補は四国。この地方については私、最高権力者様ともに足を踏み入れたことがない。八十八箇所の霊場巡りでもしながら四県全てに赴き、最後は最高権力様がぜひ行きたいとおっしゃっている小豆島あたりでゆっくりする。こんなプランならかなりのお金がかかりそうだ。まずこれを第一に選択し、さらに余裕があるのなら金沢にも行ってみたい。四国同様、北陸三県についても当家の両名は訪問したことがないのだ。

 

さらに余裕があれば沖縄。この地も両名ともに未到の地。こんな感じで日本全国の未到の地を潰していけば40数万なんぞあっというまになくなるだろう。どういう行き方をし、どんな宿に泊まり、どんな食事をするかにも関わってくるが、今更各駅停車の旅なんぞしたくもないから、せいぜい金沢くらいまでで費用が尽きそうな気がする。

 

支離鬱々日記105(お題『自分からやらねば何も身に付かず』とスモーク退団と東京五輪とコロナ禍の盛り場)

今週のお題「575」

 

私の部署の難関私大スポーツ入学の腐り脳筋弱り毛根野郎が自らの英語学習のやる気のなさの原因を私に転嫁しようとしてきたのにブチギレて、その後一切のコミュニケーションを断絶し、TV会議の場でさえ、そのバカが発言する際はあからさまに顔を背けるようになってからほぼ一年。

 

今年に関しては英語は別の学習グループに属して活動しているが、ここでもやっぱり皆が口にするのが「やる気が出ない」という言葉。続くのが「どうしたら、やる気が出るんでしょうか?」という質問。

 

一言言わせてもらう。

 

そんなもん他人に言われて出るような類のもんじゃねーよ!!

 

自分でやる気を出して自分なりのやり方を考えて日々研鑽を重ねていかなきゃ、英語なんて身に付く訳がない。人に聞いてみたところで結局「この方法は自分には合いませんでした」ってな言い訳口にしてすぐにやめてしまうのがオチ。自分の課題として認識してるんであれば、そもそも根本的な「方法」を人に聞くなんてマネはできないはずだ。

 

その中でも腐り脳筋弱り毛根バカは最低最悪のクソだったが、結局点数が取れないという現象は、自分で努力しようとする気がないのが、その唯一かつ絶対の原因だ。

 

どこかで時間を見つけて、勉強する。毎日の忙しい仕事の中で、気力も時間もなかなか割けないという状況については私も理解はしているが、もし本当にしんどいんであれば、指導する立場の人間じゃなく、管理する人間、すなわち上司に言えっつーの。上司にそのまま言えば怒られるから、何かやったという格好をつけたいだけ。そんな奴らに使う時間も気力も勿体無いだけ。自分でやる気を出して学習した結果として、品詞の形を問う問題をどうしても間違えてしまう、とか、リスニングの点がどうやっても上がらない、とかいう具体的な疑問や質問があるのなら、こちらも本気で応えるが、「どうしたらやる気が出ますか?」などという質問には答えようがない。

 

題名にも書いた通り『自分からやらねば何も身に付かず』だ。そして「自分からやる」という気持ちは自分の中から引っ張り出すしかない。私は教育役ではあったが、教育者ではないので、そこまで世話を焼いてやる義理はないし、そこまでの給料はもらってない(笑)。もし「やる気を出すことが教えられる」のなら、自分で起業してそのノウハウを売った方がよっぽど儲かるわ!!

 

巨人のスモークがいきなり退団する事になった。FBのタイムラインにも書いたが、今シーズン、スモーク、テームズの二人の新外国人獲得、というニュースが流れた後、両人ともに、今後の生涯を何不自由なく暮らせるだけの金は稼いでいるので、一旗上げようと必死になるかどうかには疑問符がつく、というような論調の報道を目にしたのだが、怪我で離脱のテームズはともかく、スモークははからずもその通りになってしまった。

 

コロナ禍による入国制限のせいで、二人の娘が来日できず、そのストレスからか、ここ数試合は打撃は不振だし、スライディングすべき場面でその素振りすら見せなかったりと、無気力さが目立っていたスモーク。ずば抜けた成績ではなかったものの、岡本の後を打つ五番打者としては及第点の成績を残していただけに、巨人にとっては、なんとも痛い退団ではある。これから改めて外国人の野手をセレクトするのか?あるいは国内で緊急トレードを行うのか?いい機会だから、レギュラーが取れそうで取りきれていない、松原、重信、北村、廣岡、香月、若林あたりを使い続けてみたらどうか?将来に向けての布石を打ついい機会ではあるのだが、一方で今シーズンも「捨て」て欲しくはない。育てながら勝つ、というのはなるほど難しい。長年の強かった歴史の呪縛がある巨人という球団においてはさらにハードルが高い課題だ。

まずは早急に丸と梶谷に完全復活してもらうしかない。

 

東京五輪の開会式を予定されている日まで、残すところ1ヶ月あまり。日本政府は開催を強行する予定のようだ。イギリスのリゾート地で開かれたG7の場で各国の首脳と会談して、悉く開催支持を取り付けてきた、と得意満面に首相が述べているが、これほど的外れな「得意顔」もない。

 

会談した首脳たちが統治する国は、いずれも「日本なんて海の向こう」だから、日本のコロナ感染者がいかに増えようが文字通りの「対岸の火事」。開催については賛成したけど、感染対策講じるのは日本だし、何かあったら日本に賠償請求してやるからな、と意気込んでいるだけだ。それを「他の国々の首脳も開催賛成です」などと自慢するに至っては、人がいいにも程がある、というよりは、完全にナメられていると言った方が良いだろうか?

逆に言えば、海外の首脳の言葉を借りてくるくらいしか、開催に向けて前向きな情報を発信する術がないのかもしれない。いかに偉い方々が、笑顔で開催を謳ってみても、その実やれっこない、と考えている実務者が大多数で、流石の政府もその声なき声には抗えないからこそ、無理やり「外圧」を導入したのかもしれない。いずれにせよ、こんな状態で五輪を開く方がおかしい、という尾身会長の意見が一番まともである。

 

昨日は久しぶりに都内有数の盛り場で、昼間から、高校時代の友人と酒を飲んだ。2店ほど酒は提供していないという返答の店をスルーして、最初に入った、中国人らしき人が経営する店で「酒飲める?」と女将さんに聞いたら、指を口に当てて「大丈夫、ナイショで、ノンアルコールビールってことにして出す」とたどたどしい日本語が返ってきた。そんなわけで、ビール一択ではあったが、中華料理を肴に三杯ほど飲んだ。この店は料理もうまいし、女将の機転もきくしで、なかなかいい店ではあったのだが、喫煙可なので日頃肩身の狭い思いをしているであろう愛煙家達が大挙して押し寄せており、店の中が煙で霞んでいるような状態だったのが玉に瑕。私も友人も嫌煙家の部類に入る。流石にわざわざ、愛煙家に喧嘩を売るほどの強硬派ではないが…。

そんな訳で、一時間弱で退店し、今度は開店直後の一杯飲み屋に移動。ここは流石に「ナイショで」なんてことはなく、堂々と酒を提供していた。ただし、19時で酒類の提供はやめる旨、明記してあった。来週の頭には緊急事態宣言が解除の方向だそうだが、相変わらず酒類の提供に関しては自粛が求められるそうで、まだまだ飲食店の受難は続くようだ。早いところ、酒もカラオケも自由に楽しめる日常が戻ってきてほしいものである。

武田勝頼は本当に愚将だったのか? 『天地雷動』読後感

 

 

戦闘シーンの描写に定評があり、「剛腕歴史小説」の異名を持つ伊東潤氏が、独自の視点で描いた「長篠の戦い」。

 

戦国最強の名を恣にした武田家の騎馬軍団が、織田・徳川連合軍の編み出した鉄砲の「三段撃ち」に惨敗を喫し、日本における合戦というものの形を変えたとされるのが「長篠の戦い」であり、鉄砲の力を軽視した武田軍は有力な武将をこの戦いで悉く失って一気に弱体化し、程なくして滅亡した。「死後三年は我が死を秘匿せよ」という父信玄の遺言を守らずに無理な戦いを仕掛けて、しかも散々に負けた武田勝頼は天下に名だたる愚将であるとする「知識」を中学や高校の日本史の授業では習った気がする。

 

少年期の刷り込みの影響とは真に恐ろしく、勝頼=せっかく初代が築き上げた名声を、バカな方策を繰り返して一気に地におとしめた無能な二代目という印象がつい最近まで消えなかった。歴史は所詮勝者のものであり、敗者は必要以上に叩かれるという、世の中の大きな考え方の枠組みに気づいたこと、我々は結果を知っていて、その敗因についても後から分析できているから勝手なことが言えるのであって、その時々の当事者は未来を予見することなどできるはずがなかったと考えるようになったこと、勝頼を描いた様々な小説やエッセイを読んだり、テレビの歴史番組などを観たことにより、必ずしも武田勝頼という人物が思いっきりのバカではなかったという考えも持つようになった。

 

偉大な先代の影を追う、古株の重役たちの強硬な意見表明に、自らの出自が傍流であるという負い目…、私ならとっとと失踪でもなんでもして二代目なんて地位は捨て去ってしまうだろう。それに立ち向かって、自らの意思で信長や家康という強敵と戦おうとした勝頼はそれだけでも尊敬に値する存在であると言える。いくら志が高くても、負けてしまえば意味がない、という見方もできるが、結果だけでなくプロセスを重視せよ、というのは最近のビジネス書などでもよく言われていることだ。この本を読んでみても、その他の資料からも、プロセスも決して褒められたものではないということは読み取れはするのだが(苦笑)。

 

さて、この小説はクリフハンガー方式を採用し、様々な立場の人々の考えや行動が綴られながら、長篠の戦いという最大のクライマックスに向けて物語が進行していく。主な登場人物は武田勝頼豊臣秀吉徳川家康、そして、武田側の兵士として戦いの現場で実際に戦う、歴史上では無名と言って良い半農半武の宮下帯刀という人物だ。

武田勝頼には長坂釣閑斎という側近の武士、秀吉には豊臣秀長という実弟、家康には譜代の部下酒井忠次というそれぞれの人物と対をなす人物が登場し、その人物たちとの会話で、その時々のメインキャストたちの心の動きが示されるという、なかなかに巧みな仕掛けがなされている。

 

宮下帯刀については、対をなすような人物は存在しないが、その分、近親者や、一緒に領地で農業に携わる部下との交流が密に描かれる。部下を一人たりとも死なせたくない。戦の勝ち負けよりも、その一事こそが帯刀の最優先事項ではあるのだが、大軍同士が激突する、もっと言えば歴史が大きくうねる瞬間においては個人のそんなささやかな願いなど到底叶えられるものではない。虚しさ、怒り、そうした感情を押し殺し、全ては運命と諦めるしかない無力感…。これこそが、日々、会社内、あるいは社会全体の大きなうねりの中で様々な虚しさに苛まれる一般庶民の共感を呼ぶモノだと思う。

 

長篠の戦いそのものは、三段撃ちなどという戦法云々より、実戦に入る前に織徳連合軍勝利は確定していたという、冷酷な事実が語られる。武田軍といえば騎馬軍団が高名で、その威力を過信し、鉄砲の存在を軽視した無謀な突撃で自滅した、というのが日本史の授業で植え付けられたイメージなのだが、武田軍にも鉄砲部隊は存在したし、勝頼をはじめとする諸将が鉄砲を軽視していたわけでもない。信長の命を受けた秀吉が、今井宗及を通じて火薬の流通を押さえてしまった事により、自軍は鉄砲を撃ちたくても撃てないのに、敵軍はそれこそ湯水の如く弾丸を撃ちまくれるという状況が出来し、それゆえ、勝頼の退路を確保するために無謀を承知の突撃を繰り返すしかなかったというわけだ。

将棋の上手いやつと対戦すると、陣形に全く隙がなく、攻撃を仕掛ければ仕掛けるほどコマ損になっていく、という状況に追い込まれるのだが、ちょうどそんな感じではなかっただろうか?戦いの厳しさはもちろんのこと比べるべくもないが、歯痒さの中で、敵弾に倒れた武将の無念さは察するにあまりある。

補給を制するものは戦いを制すなどと言われ、近代戦でもロジスティクスは戦況に大きく影響するが、まさにこの戦いは火薬の補給を潤沢に行う(同時に敵の補給は断つ)ことができたが故の勝利だったのだ。この考え方は、織田軍の「基本戦略」となり、秀吉や、明智光秀は実際の戦いの前に敵の糧道を断つことで降伏を促す戦法を取ることが多くなった。中国大返しの際の備中高松城は「水攻め」の成功例として名高いが、水に囲まれたストレスとプレッシャーもさることながら、補給路を完全に断ったことが大きな勝因だし、後の世の「小田原城攻め」も然り。「長篠の戦い」の際は火薬という兵器そのものだったが、小田原城攻めの際は陣内に遊郭までしつらえた豊臣軍の豪華絢爛さと、次第に乏しくなっていく小田原城内の物資の差が、文字通り北条方の体力を奪っていった。

 

戦いの基本は個々の人間同士のぶつかり合いではあるが、武力に優れた人間がその真価を発揮する前に、戦力を削ぐ事に戦の主体が移っていく、一つの契機が長篠の戦いであり、これ以降、戦は力よりも頭を使った方が勝つようになっていく。うーん、少しは中学時代よりは深い見方ができるようになったかな(笑)。