脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

支離鬱々日記88(腑抜けた日々)

ここ数日、どうも気合が乗らない。

 

先月末にTOEICは受けたし、当面やるべき大きな仕事も一段落した。人間ドックは受けたし、異動もなかった。新居の建築も次のステップに移るまでには少々時間がある。プロ野球はまだ開幕しないし、トップリーグもまだ先が長い。自分自身のラグビー実戦復帰には目処が立ってないからトレーニングする気にもならないし、取り掛かってる小説も煮詰まってから久しい。

 

おまけに、花粉症で鼻と喉は絶不調。徒に時間だけ過ぎて、やれてないことに疲れて、惰性でオンラインゲームに手を伸ばす日々。一旦ゲームをし始めてしまうと、映画を観る気にもならないし、本も読まないからブログのネタもない…。八方塞がりだ。

 

どのカテゴリー一つとっても、やり始めればいくらでもやることはあるのだが、やり始めるきっかけがつかめない。自分の中からやる気を出さなければ、何をやってもロクな結果にならないことも分かっている。指一本動かすのも苦痛というレベルではないものの、明らかにこれはウツの症状ではある。いわゆるコロナ疲れってやつの一環なのかもしれない。外出を控えなければならないという事態は思った以上にストレスを生むものらしい。

 

こういう時こそ何か気分を変えなければということで、以前に紹介した『取り替えるだけ!メガネが人生を変える』の著者が店主を務める誠眼鏡店を訪ねてみたら、なんとその日は定休日(笑)。いろんなものの巡り合わせが悪い時はとことん悪い。今の自分と最も乖離したイメージのもの、ってオーダーを出してみたかったんだけどなぁ。まあ、場所の確認ができたので、いつでも行けるという感覚だけは得た。

 

最近は食欲すら以前ほどには感じない。例えば、誠眼鏡店新宿店への訪問が空振りに終わった際、つい数年前までなら、すぐ近くにある「満来」にでも寄ってチャーシューざるの一杯もやけ食いしたところだが、この日はそんな気にもならなかったし、その後に立ち寄った場所で用足しした後にも近所の飲食店に対して全く興味が向かなかった。私としては今までになかったことである。欲望が消えたのか?カラダが過剰なカロリー摂取を受け付けなくなったのか?人間ドックの結果が気にかかる。

 

今はとにかく、月に一度姪っ子に会って一所懸命触れ合うことと、新居への移住に関する様々な準備(主には処分するモノの選定)を進めること、あとは少々の晩酌だけが僅かに心はずむことだ。

 

おりしも、今日は、東日本大震災から10年目の節目の日。あの当時、家が瓦解したり、家族が洪水に巻き込まれた人々からすればはるかに恵まれた暮らしなんだと思って、日々を悔いなく生きようとも思わされたのだが、そんな真摯な思いを吹き飛ばしてあまりあるほどの億劫感に苛まれているのが現状だ。これはこれで苦しいことではある。

住まいの「完成」は竣工時ではなく、「暮らし方」が定まった時 『住まいのプロ七人と語る』読後感

 

住まいのプロ七人と語る

住まいのプロ七人と語る

  • 作者:宮脇 檀
  • 発売日: 1993/01/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

私に先んじて、新しい家に住み始めた友人から借り受けた一冊。著者である宮脇壇氏を始めとして、斯界では有名な方々(であろうと思われる。私は建築とか建設とかいうことに一切興味がなかったので、名前をみても、書中で紹介されている彼らの仕事をみてもピンと来ない)が登場する対談集。

 

新しい家の設計図はほぼ固まり、来週の末には完成予想スケッチが上がってきて、その翌々週に契約締結して地鎮祭、という流れまでは決まった。実は本日は、春の異動の発表がある日だったのだが、めでたく私は異動なし、ということで少なくとも家の竣工までは、現在と同様の勤務形態が継続することは決定した。まあ、秋の異動でできたばかりの新居を横目に遠隔地へ旅立つ、という可能性は否定しきれないが…。

 

ともあれ、秋までの私生活に関しては家の建築という事象が中心となることは決定した。とはいえ、まだまだ家というものに関しての知識が絶対的に不足しているので、知識の習得もしばらくは続く。実際の現場に行ってケチつけたり、追加で注文しようなどという気はないが、最低限、おかしいと感じたことはおかしいと言えるだけの知識だけは身につけておきたいからだ。そんなわけで、ちょいちょいと関連本を読み飛ばしている状態だ。

 

さらに言うと、「家」は建物ありきではなく、どんな生活をしたいかを考えてその生活にマッチしたものになるべきで、理想の暮らしとはどんなものなのかを真剣に考えて、その理想に沿う状態を実現すべき場だ。この本にもズバリと書いてあったので題名にもあげた。

 

自分の理想の暮らしって、一体どんなものなんだろう?それを考え始めると、とてもじゃないけど軽々に話を進めていくわけにはいかなくなる。実際はもうかなり具体的なお話が決まっていて、走り始めているんだけど(苦笑)。

 

現状で考えられる「理想の暮らし」を私たちなりに考え、そこから発生してきた様々な要望を設計事務所の方々には伝えたが、結局、枝葉末節の設備のお話しかできていないような気がする。

 

大切なのは、設備を思いつくままに取り付けるのではなく、その設備を使ったら、どんな暮らしが創出できるのか?である。同じ使うにしても、様々に工夫を凝らして、より快適で創造的な暮らしができるよう、日々試行錯誤していかなければなるまい。さあ、建物が出来上がりました、だけでは「家」は完成したことにはならないのだ。

 

また、家族を取り巻く環境も年々歳々変化していく。我々自身のカラダが衰えていくというのもあるし、母親を介護のために引き取るなんて事態になるかもしれない。そうした事態に対応するために、家も変化していく必要がある、と語っていた方もいた。この方の自宅は様々な事態を想定して、かなり改築が自由にできるよう設えてあるそうだ。う〜ん、ますます今の設計図のまま進めて良いのかどうか、迷っちゃうじゃねーか!

 

今までは基本的に集合住宅の一角を借りる、すなわち、家の形の方に暮らしを合わせる、という方法で生活してきたので、その辺は、時々の状況の中で折り合いをつけていくしかない。最終的には雨露さえ凌げればなんとかなるんだ、くらいに考えておくしかない。

 

一生借家住まいの方だっているんだし、私自身も「自分の家」なんてのは転勤族卒業する、すなわち会社を定年退職した後にしか持てないと思っていたので、どんな形にせよ、自分たちの意向をある程度反映させられる「持ち家」を建てられるのは嬉しいことなのだ。家の形はある程度定まったが、家の使い方に関しては、これからじっくりと、それこそ日々の生活の中から学び取っていくことにする。

人間の敵はウイルスか?それとも人間か? 『コロナとバカ』読後感

 

コロナとバカ(小学館新書)

コロナとバカ(小学館新書)

 

 買うまい買うまいと思いながら、毎回毎回買わされてしまうのが、週刊ポストの連載をそのまんま載っけた、出版社とタケちゃんにとって二度オイシイこのシリーズ。相変わらずアコギなマネしてるな、と思いながらも、本屋でレジに並ぶ気恥ずかしさみたいなもんがないと、結局電子書籍で手に入れちまう。

 

内容はっていえば、まあ、いつも通りの世相斬り。去年の今頃から、今年に至るまで、世間に大きな影響を与えたコロナに関しての世間の人々の行動ってやつにツッコミを入れまくる。

 

ちょっと前までは「日本では水と安全はタダ」なんて神話がまことしやかに語られてたけど、水はちょっと前からはカネ出して買うのが「普通」になっちまったし、安全に関しても今回のコロナ騒動で、一気に嘘っぱちだったことがバレちまった。

 

人間に害なす、強力なウイルスの出現そのものは誰にも責任は問えない(中国が生物兵器として開発したなんて噂もないではないが…)んだが、問題なのはウイルスに感染した人へのケア体制。1億3千万人からの人口を抱えてるってのに、高々1万人が感染しただけで、事実上医療崩壊に近い状態にまで陥った。現場の方々が目一杯尽力していたというのは痛いほど理解しているし、いくら感謝してもし足りないくらいの思いはある。少し大きな感染症の波が襲ってきたくらいでオタオタするような医療体制しか構築できていないことが問題だ。

 

今回も既往症のある病人だけで手一杯なら、オリンピックの選手村でもなんでも開放して、病床に充てるくらいの措置はできたんじゃねーのか?昨年4月の時点で、世界各国の感染状況の深刻さ考えりゃ、五輪の開催なんて到底無理なんだってことは、報道されてる情報見ただけだってわかるってのに、選手の受け入れに問題が残るだの、その後の資産価値が下がるだの、理由つけて開放に踏み切らなかった。誰も責任取りたくないってのがミエミエなんだよ。洪水起こしてて、すぐにでも石積んで止めなきゃいけない事態の時に「あの山崩したら景観が損なわれる」なんて理由で放置するバカがどこにいるってんだ?そういうバカが支配してたのがあの当時の日本だったわけだ。あの時から、トップの顔は変わったけど、やってることは変わらねーな。身内から、虎の威を借る狐みたいな存在が出てきて悪さしたところまでそっくりだ。

 

もう一つ、問題はある。ウイルスの発生に関しては誰の責任でもないとさっき書いたが、ウイルスに感染した人やウイルス感染の危険性行動を取る人をバッシングする行為、いわゆる「自粛警察」なんてのはまさに、バカの所業だ。

 

自粛を求められている期間中に営業を続けた店や、都市部から帰省してきた人の家に誹謗中傷するビラを貼り付けたりする人物が現れたのだ。これだけでも相当卑劣な行為であるのは事実だが、こんなのはまだ序の口で、ネットで散々誹謗中傷したり、近所に根も葉も無い噂をまいて、引っ越しを余儀なくさせたり、精神にダメージ負うまで追い込んだり…。自分がやられてイヤだと思うことは他人にやってはいけない、なんて社会的なルールの初歩の初歩ですら守れない人間が増殖した。ネット社会の到来で、潜在的に増えていたこうした人物達が、コロナ禍という錦の御旗を手に入れて、コロナにかかった人、あるいはコロナにかかりそうな行動をしている人たちを叩きにかかっている。なんのことはない、中世の魔女狩りと構造的には一緒じゃねーか。そのうち、あいつはこんなにひどい臭いのある場所通っても何にも反応しなかったから、コロナにかかって嗅覚がおかしくなったに違いない、とか、急に抜け毛が増えたやつは絶対にコロナだなんてデマで、周りの人が松明持って押し寄せて焼き殺しちゃうなんて事件が起きるかもしれない。いや、実際の行動には繋がらなくても、ネットという場でのバッシングなんかは、十分に同じだけの威力を発揮している。

 

どっちにしろ、心身ともに変な「熱」にはうかされないで生活する冷静さと清潔さを持ち続けるしか一般庶民には防衛手段はない。世界各国でワクチン接種が始まり、日本でも医療従事者、老齢者、などの順番で接種が進んでいくだろうが、コロナ以前の生活の平静さを取り戻すにはまだまだ長い時間がかかりそうだ。コロナ後の世界で「あん時の俺たちゃバカだったなぁ〜」なんて笑える日が来るといいけどな、まったくよ。

支離鬱々日記87(断捨離と時事ネタと東京オリンピックの行方)

転居準備の一環としての断捨離を断行中だ。

 

先週は、旅先で買い求め、旅行の思い出を一杯まとった(と勝手に感じていた)服をバッサリと捨てたが、今週は、まず、靴下を収納してあった小引き出しに手をつけた。

 

最近は外回りはおろか、ろくに会社にも行かないので、ビジネスソックスなんぞほとんど履かず、半分「伏魔殿」と化していた小引き出しだったが、まあ、毛玉のついたボロい靴下が出るわ出るわ。10足を優に超えるボロ布の塊が小引き出しを占拠していたことになる。あまつさえ、そのボロ布の下からは、真新しいカジュアルなソックスが5足も見つかった。無駄なものに埋もれて、有効性のある品物が腐りかかっていたのだ。引き出しも空いたが、キモチもかなりスッキリした。

 

勢いに乗って、クローゼットの一つを「開封」。ちょっと前に着ないと決断した服は大分処分してあったため、引き出し整理時ほどの不用品は出なかったが、それでも10着ばかりのカジュアル衣料と決別することになった。

 

で、近所の大手古着買取チェーンの店舗に持っていったら、全部で97円だった。お金の問題ではないとはいえ、流石にちょいと安すぎるなぁとも感じた。サイズの関係で1回しか袖に手を通したことのないやつくらい、せめて1着50円くらいで引き取ってくれない?とも思った。他は散々着古したやつだったので、引き取りを拒否されても仕方ないか、くらいには思ってはいたものの。それにしても、こうして引き取ったやつを1着100円で売れば、千円になるのだから、結構オイシイ商売ではある。査定の手間考えたら、こちらが考えるほどは旨味はないのかもしれないけどね。

 

福岡の幼児餓死事件で、幼児の母親のママ友で、母親をだまくらかして、カネを搾り取っていた女の写真が実に肉肉しい、もとい憎々しい。文字通り、哀れな一家から搾れるだけ搾り取った結果として、このママ友はブックブクに肥太っている。半島北部の国家と独裁者の関係もかくやと思われるような、見事な肥大ぶりだ。『半沢直樹』では、敵役たちの非常にわかりやすい顔芸が話題になったが、このママ友は体格芸とでも言おうか。見る人に、はっきりと憎悪の念を喚起させる、一流の憎々しさだ。彼女の贅肉となったであろう金のホンの一部でも、子供たちの食費に回せなかったものか?という無念の気持ちを嫌でも思わずにいられない。映画とかドラマであれば最優秀女優賞モノの見事な自己演出だった。

 

東京オリンピックを、なんとか開催しようとする関係各位の姿はもはや痛々しい。世界的な状況を鑑みても、観客はもとより、選手だって安全に移動できるか疑わしい。柔道、レスリング、7人制ラグビーなど濃厚な接触が不可避な競技だってある。

 

何より、無観客開催、または日本の国民だけが現地観戦可能などという事態で開催しては、なんとか世界各地から、大量に客に来てもらって、カネを落としていってもらおうという目論見が全く外れてしまうことになる。正直、無観客では、選手以外にメリットはない。スポーツ大会なんだから、純粋に競技だけやればいい、なんてキレイゴトでは済まなくなっているのが、1984年以降の、商業イベント色が強くなってしまったオリンピックという大会の正体だ。莫大な先行投資を全く回収できないまま、残ったレガシーは負債だけなんてことになったら、今後の日本という国の浮沈に関わる問題だ。

 

なんとか2024年から順ぐりに開催年をずらす方法を模索していくのが、せめてもの解決策だろう。どうせ、ロスはともかく、パリなんざこの騒ぎで準備なんか何にもできてないんだろうから、日仏両国の窮状を救う手段たり得るのではないかと思うのだが、大金を出して放映権を持ち、発言力も強い米NBCを動かすのは難しいんだろうね。

 

今回の東京オリンピック招致活動に関しては、前オリンピック実行委員会の会長森喜朗氏の活動は非常に効果的だったというのは事実のようだ。会長という立場ではなく、もう一度、裏方として2024年への延期に向けて活動してもらったらいかがだろうか?最後に咲かせる一花としては十分に大きなものになるだろうとは思うが、例の発言でのマイナスイメージはそんなことは許さないのかもしれない。

支離鬱々日記86(窓際サラリーマン家を買うシリーズ10)

先週、姪っ子の初節句記念祭に参加するために帰省したついでに、実家にほど近いモデルハウス展示場を見学してきた。

2月の半ばの打ち合わせで、設計図を見せてもらい、かなり具体的な像が頭の中には浮かぶようになったとはいえ、建築材質の触感や実際の空間の感覚など、やはり具体的に見ておいた方がいいと判断したためである。

 

コロナ禍の関係で、最近のモデルハウス展示場は、予約が必要。というわけで、事前に4社ほど予約して訪問。1社あたり約30分で計2時間ほど、たっぷりと各社のセールストークのシャワーを浴びてきた。

 

俗に「映画は総合芸術だ」などという。台本、演出、カメラワーク、役者の演技に音楽まで、確かに視覚、聴覚に訴えかける全ての要素があるのが映画であり、総合芸術の名に相応しい。この表現に即していうなら、「家は総合技術だ」とでも言おうか。雨露をしのぐことは基本中の基本で、耐震性、エネルギーの効率的使用方法、衛生管理システム、収納などの全ての技術を詰め込んで、「快適な暮らし」を創出する建築物が家だ。

 

見学した4社は各社各様のアドバンテージポイントをたっぷりとアピールしてくれた。群馬県産の木材にこだわるところもあれば、災害に強い構造を謳うところもある。コストパフォーマンスの良さをウリにするメーカーもあれば、外壁の手入れの良さを筆頭とするメンテナンスの容易さをアピールしてくる会社もあった。

 

例えば服や、家具など嗜好性の強いモノとは違い、優れた技術力の集積こそが最終的には生活の快適さ、安全性の担保となるという説明が共通してなされ、その上で、自社の強みはどこかをアピールしてくるというある種の「文法」みたいなものが統一されていて、非常の比較がしやすかった。私は非常に嗜好性が強い商品の営業職にいたことがあり、「最終的にはお客様の好みの問題ですね」という結論に帰結してしまうことが多かったため、この、技術の集積としての差異性の明示と、コストとの兼ね合いを具体的に提示してくれる説明方法は新鮮だったし、わかりやすかった。本来、商品の説明というものはかくあらねばならぬ、という見本を見せてもらった思いだった。

 

ただ、どれだけ優秀性をアピールされても、最終的には親戚に頼む、という基本線は変わらず、そういう意味では、懸命にアピールしてくれている皆様には申し訳なさを感じながらの見学となった。なんだか、常に居心地が悪い思いを引きずってた。

 

さて、この日の一番の収穫は靴の収納スペースの実例を見られたこと。設計事務所から提示された案よりはやや大きめなシューズクロゼットのあるモデルハウスを見学したのだが、私も最高権力者様も「今の設計図にあるシューズクロゼットと玄関の広さは合わせて半分ほどでいいから、その分LDKを広くしてほしい、との思いをほぼ同時に抱いた。しょせんは夫婦二人の住まいであり、別に履き物に凝る趣味も持ち合わせてはいないので、今あるものが収まればそれでよく、いきなりナイキのスニーカーのビンテージものを収集しようなんて気は起きないだろうから、必要最低限の空間で良いという要望を、早速親戚筋に伝え(モデルルーム見学後にその親戚筋と打ち合わせる予定があったのでその席で伝えた)、その場で設計図を修正してもらった。

 

親戚筋との打ち合わせでは、2階で物置に使用しようとしていたスペースの「部屋」への昇格が提案されてきた。最高権力者様の嫁入り道具の箪笥を収納しようとするとウォークインクロゼットには入りきらないため、急遽、一部屋追加したのだそうだ。その影響で、屋根の形も少々変わることになったし、2階の居住可能スペースが広がったことで、固定資産税の金額も変動するようだ。こういう選択は実に難しい。最高権力者様は、その変更案を見て、物置は物置のままとすべく、大型の箪笥を一棹手放すことを考えたそうだ。私は「大きいものを小さくする(使う)のは簡単だが、小さいものを大きくするのは難しい」という考えを彼女に伝え、彼女もそれに納得し、結局一部屋追加することとなった。

 

というわけで、今月下旬の次の打ち合わせの際には完成予想図のスケッチが出来上がるそうだ。また一つ、イメージが具体化した。今は色々なことを考えることに関しては煩わしさよりも嬉しさの方が大きいから、どんな経験も、知見もポジティブに考えられている。後からドッと疲れてしまいそうではあるけど。まあ、新居の新しいベッドの上でゆっくり休む日を夢想しながら、やるべきことを片付けていく。

「持ち続けているモノ」がまとっているのは思い出ではなく、今までの自分の生活の反省点である 『必ずできる断捨離BASIC』読後感

 

 

必ずできる断捨離BASIC

必ずできる断捨離BASIC

  • 発売日: 2014/12/17
  • メディア: Kindle
 

 

Kindle Unlimitedにラインアップされていなければ読んでいなかったであろう本シリーズの8冊目は、今までに何冊も読んでいた「断捨離」に関する1冊。

 

これまた最近、何度も書いていることだが当家は10月を目処に新居に引っ越すこととなった。引っ越しとなれば当然手持ちのモノを整理する必要が生じる。潜在的に存在していた問題意識に引っかかった本がたまたま読み放題メニューの中にあったが故の衝動DLだ。本当はこういう衝動的な購買行動というのは断捨離の一番の敵なのだが(笑)。とにもかくにも、DLしたら読むしかないので読み進めていった。

 

内容的には目新しいものはなかった。断捨離というムーブメントが世に出だした頃の著作であり「BASIC」と銘打ってもあるのだから、むしろこの本はこの類の本の「基盤」となった一冊かもしれない。どういう考え方に基づけば、スムーズにモノを手放すことができるか、という心構えから、断捨離という行動を気軽に、かつ長続きさせるためのテクニックが記してある。細かい内容については、是非本文をお読みいただきたい。先達たちの実践例もあれば、イラストを交えたエッセイ風に断捨離の過程を記した部分もある。なかなかに読みやすかったというのは事実。

 

今回読後感を描くにあたっては、私なりに哲学(というほど高尚なモノではないか。ま、単なる屁理屈だと思っていただきたい)を捻り出してみた。

 

モノを捨てることができないのは何故か?

 

それは過去の自分を否定することにつながるからだ。その時その時の価値観の反映でもあるモノを捨てることは、過去の自分が間違った価値観を持っていたことの証左となってしまう。

イヤだイヤだ自分は間違ってない、正しい選択の結果としてそのモノを手に入れたのだ、だから自分の正しさを証明するために持っておくのだ。貰い物は軽い気持ちで手放してしまっては、くれた人に対して失礼だ。だから持っておくのだ。これは自分の過去を思い出すための品だ。この品があるからこそ、自分は過去を思い出すことができるのだ。だから持っておくのだ。

 

モノをとっておく理由は幾つでも挙げられるが、その根底には、モノを持っておくことが「正しい」ことだという意識がある。先日紹介した『頭のゴミを捨てれば、脳は一瞬で目覚める!』の著者苫米地英人氏の言葉を借りれば、モノを持ち続けることはその人にとってのコンフォートゾーンに属することだということになる。コンフォートゾーンとは快適な領域とおいう意味であり、まさしくモノを「持っている」ということが快適だという状態になっているのだ。この状態から脱するのは至難の技である。

 

結果的に、モノは減らず、どんどん増えていき、購入時にお金は取られるし、購入後は余分なモノを持っておくために家賃を払い、空間を無駄遣いし、心理的な疲弊まで招く。

 

こうした不具合を抜け出すためには、自分の今までの行動を冷静に見つめて、合理的な考えに基づいて、不要な品、余計な品を手元からリリースして、必要なモノだけを持つという姿勢に自分自身を作り変える必要がある。

 

例えば服。「痩せたら着られる」、「またいつか流行るかもしれない」というのは問題の先送り。「痩せたら着られる」とか言ってる人はまずその前提条件としての「痩せる」が達成できていないはずだ。「またいつか流行るかも」ってその「いつか」はいつ来るかわかったもんじゃないでしょ!!大雑把に今までの流行り廃りの個人的な経験則からいうと、2年や3年では流行は巡ってこない。よほど高い和服とか高級ブランド品でもない限り、10年も経てば布地の劣化で着られなくなることの方が多い。流行れば流行ったでその時また買えばいいじゃん!

 

例えば、思い出の品。その品物がなきゃ思いだせないような思い出なら、その思い出そのものに価値はない。本当に大切にしたい思い出なら、頭の中に強烈に、たどることのできる痕跡が残っているはずだ。本文中でも、昔の恋人からのラブレターをどうしても捨てられなかった人が、一通だけどれか捨てるとしたら?という基準で一通選んで捨てたら、全部捨てることに抵抗がなくなり、一気に全部捨てた、という体験談が紹介されていた。私自身も「新婚旅行先で買ったパーカー」を20年を経た今になってようやく捨てたが、そのパーカーを目にしなくたって、頭の中には新婚旅行の思い出はしっかり残っている、ということに気づいたからだ。この気づきを得てから、旅行にまつわる思い出の品は一気に廃棄対象となった。

 

コロナ禍の拡大で、世の中全体に否応なしにリモート勤務が浸透し、インフラも整えられたし、一般ピープルがそのインフラを活用することが求められるようにもなったが、標題の本を読んでやり始めた今回の私の断捨離はこのリモート勤務の状態によく似ている。新居に移住するという事態を前に、余分なモノを削ぎ落とす必要が、強力に生じたのだ。この断捨離を機に、無分別に買いまくることを快とする精神状態から、必要なものを必要な時に必要な分だけ

手に入れて、最後まで使い切ることを良しとする精神状態に作り替えていきたいと思う。

再読したら超ポジティブになれた一冊 『「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!』読後感

 Kindle Unlimitedでメンタルヘルス関係の本を検索すると必ず表示されるのが標題の書。確かどこかで読んだことがあるはずだが、内容を思い出せないし、これだけ推奨されるってことはそれなりに私の興味に合致しているのだろう、と考えてKindle Unlimitedを利用して読んでやるかと、購入画面に進んでみたら、案の定すでに購入していた。まあ、興味を持ったのは事実だから再読しようとDLしなおした。

まずは2018年に読んだ際の読後感を引用しておく。

 

″何度か書いている通り、私は両親共に公務員の一人息子だ。両親からは中学時代くらいから、「いい高校、いい大学に入って、いい会社(できれば公務員)になることが一番の幸せだ」と繰り返し、繰り返し叩き込まれた。おかげで、私の精神に形成されたホメオスタシスは、両親の描いていた理想像を外れようとすると強力な現状肯定指令を発令する。クソ上司にド田舎に島流しにされようが、鬱にかかって休職しようが、今の会社に定年までしがみつくことを要求する。そして私は今のところこの指令に逆らうことはできていない。せいぜい、会社をズル休みするとか、業務時間中にこっそりと文章をひねくりまわす程度だ。真面目な生徒が道端で拾ったエロ本を隠し持っている程度の「反抗」しかできない(苦笑)。

 

「俺のしたい仕事はこんなことじゃない」「(通勤も含め)毎日の会社の仕事が苦痛だ」という、モヤモヤした思いを抱えながら、なんとか毎日折り合いをつけて、「理想の社会人」を演じている状態だ。

 

今のままの生活を続けていたら確かに食うには困らないだろうが、死の直前に自分の生涯を振り返ったら、恐らく後悔の念しか残らないだろう。

 

以前、カウンセリング受診のために通っていたメンタルクリニックの医師に言われた「自分の本当に達成したい姿へのアプローチよりも現実との折り合いをつけることが目的化してしまい、結果毎日毎日疲れが蓄積していく」という状態に見事にハマってしまっている状態だ。

 

標題の書はズバリ、自分が本当にやりたいこと、本当になりたい姿を目指すためには、現実肯定指令を出している、頭の中のゴミを捨て去ることが肝要と説いている。と同時に、自分の目指す将来にとって、無駄な出来事は一つもなかった、と考え方を変えることで、苦しかった過去の記憶すら宝物にできるとも説いている。過去の出来事そのものを変えることはできないが、理解の仕方を変えることで、少なくとも苦しみの原因にはならなくなるというのである。

 

私の中に巣食うホメオスタシスは強力で、今すぐに会社を飛び出して、文筆活動一本で食っていく、などという冒険にはとてもじゃないが飛び込んではいけないが、過去の苦い記憶の捉え方を変える、という考え方には、すぐに飛びついた。

 

全てが文章を書くためのネタだったと考えれば、確かに過去の経験は一つも無駄ではない。順風満帆に思った通りのコースを歩んできたら、そもそも苦しむ必要はないだろうが、人生の記録という意味では平凡なイベントの羅列に過ぎなくなってしまうだろう。エリート中のエリートコースを歩んできたはずの何処かの元政務次官みたいにセクハラ問題でも起こせば別だが…。

 

今後は、常に心の片側に会社から飛び出すという考えを持ち、もう片方には様々な事象を観察したり、技術を身につけるということを意識して行こうと思う。会社員として生きてきた人間には、そうでなかった人間には書けない内容や、身につかなかった技術があるはずである。どうせ飛び出すのなら、できるだけネタを拾っておこうと考えるだけで今までとは違う気持ちには変えられそうだ。また、嫌な思いをさせられた野郎どもには目一杯の悪役として登場願おうとも思っている。悪役が魅力的でないと作品が盛り上がらないからね。とは言え、一朝一夕には身につかない考え方ではあるので、修練を続けて行こうと思う。″

 

このブログを書いた時と同様に、なりたい未来の姿から、現在、過去をみてみることで、出来事の意味を捉え直す、という考え方には改めて感銘を受けた。過去、現在の苦労は必ず、未来において報われる、という理想論を現実的社会で思いっきり否定された経験がある身としては、明るい未来を信じる気持ちが薄れつつあったのだが、改めて文筆業者として食っていく、という自分の夢を見つめ直し、意識をそこに結びつけていこうと思う。

 

著者によれば、「食うために働く」という言葉も捨てる必要がありそうだ。今の世の中で「餓死」する人なんぞホンのわずか。コンビニのバイトやら、配送所での荷捌きやら、人手不足の場所はいくらでもあるし、最悪の場合は生活保護を受けたって最低限の生活を営むことは可能。今の仕事をやめたからといって、直接死に結びつく「食っていけない」という状況が出来することなどそうそうはあり得ない、という指摘には少し勇気をもらった。田舎に引っ込んで、今の会社に奉職し続けることに対しての抵抗感が強まることが考えられる現状において持ち合わせている不安感を少しばかり手放せた気はする。

 

もう一つはコンフォートゾーンからの脱却。今の状態が嫌だ嫌だと思いながらもそこから離れられないのは、今の「イヤだイヤだ」状態をコンフォートゾーン、すなわち快適な状態と感じているが故だ。自分が本当に理想だと感じていることを達成するためにはどうしたら良いのかを考え、今の生活•考え方の枠組みを外して、実現に向けて行動していく。理想の状態とは自分が「楽しい」と感じる状態であり、その状態を達成するための努力であるなら苦痛とは感じないはずだ、ともあった。その通りだ。私はネタさえあれば文章を書くことは全く苦痛ではない。ではネタはどこから探すか?それこそ身の回りにネタなんかいくらでも転がってるじゃねーか!!本を読めばその内容がネタになるし、映画を観てもドラマを観ても、ラグビーの試合を観ても然りだ。トレーニングの内容だって、TOEICのスコアだってラグビーの試合に出て、スクラムでボコ押されして悔しい思いをしたことだって立派なネタだ。今挙げた物事、全て全然苦痛なお話ではない。楽しんでいることばかりだ。

 

読んだ後に「同病相憐む」的な感覚ではなく、能天気と言って良いくらいにポジティブな気持ちになれた、珍しい一冊だった。