脳内お花畑を実現するために

サラリーマン兼業ライター江良与一 プロブロガーへの道

お寺とは決して興味本位、怖いもの見たさで訪れる場所ではない『実録 お寺の怪談』読後感

 

実録 お寺の怪談

実録 お寺の怪談

 

 

「祟り」を日本の政治や社会に重大な影響を与えるものであるとする、独特の宗教観で知られる井沢元彦氏によれば、仏教というものは元々「死者の祟りを鎮める」という効能はなかったのだそうだ。地方によっては、唱えるだけで妖怪の類が退散すると伝わる般若心経にしても、標題の書に掲載されている現代語訳をみる限りでは、現世における人間の身の処し方、心の持ち様といったモノを説く内容であって、死者の怒りを鎮めることには直接つながっていない。輪廻転生を基本思想とする仏教においては、何か良くない行動を起こせば、いつかどこかでその報いを必ず受けるということになるので、その報いを受けないよう現時点でしっかり良い行いをしなさいよ、という教えを死者や狐狸妖怪の類を説き伏せるために用いているのだ、と考えることもできるが、無理矢理感は否めない。

 

ただ、仏教(に限らず宗教全て)は人の死という事象に関わる事が重要な務めの一つであるため、どうしても、死後の世界やら、死んだ後の魂の存在なんてことに結びつきやすくなる。寺などは、生と死の間を繋ぐ格好の舞台装置である。墓場が併設されている場合も多く、そこを訪れる度、人は死について考えざるを得なくなる。そして、死や死後の世界に結びついたモノゴトは寺に持ち込まれる事が多い。

著者高田寅彦氏は自身寺の子として生まれ、仏教系の大学で学んだ仏教のスペシャリスト。実際に寺で育ち、かつ、学問としての仏教も修めた著者が収集した「お寺の怪談」には大いに興味を惹かれたんで、衝動DL。

 

収録されたお話はどれもこれも怖い。銀行の貸金庫から腕が出現する様が防犯カメラに写っていたとか、事故で死んだ子供の毛髪を移植した人形が様々な怪異を引き起こすとか、なぜか右の後輪ばかりがパンクするスポーツカーとか。一時このテの怪談を再現VTRにして流すような番組が流行った事があったが、こういうお話は下手に映像にしてしまうより、文字で読んだ方が、より現実味と恐怖が増す。自分の想像がどんどん怖い方怖い方に飛躍していってしまうからだ。

 

中でも一番私が怖かったのは、古寺の改修工事の際に本堂の床下の地面から出てきた五つの石のお話。著者が大学生の頃、大学の同級生の実家である寺の改修工事を住み込みで手伝っていた際のお話だそうだ。五つの石にはいずれも五芒星が刻んであり、等間隔に埋まっていたのだそうだ。改修の基礎工事の邪魔になるからと掘り出しておいたら、その日から様々な怪異が起こるようになったそうだ。どんな怪異かは、是非本文に当たっていただきたい。

 

この石は何か邪悪で強力なモノを封じ込めるために埋められ、その封印が解かれないよう、石を埋めた上に寺を建てたのではないか、という結論に達し、石はきれいに洗ったのちに塩で清め、元あった通りに埋めなおされたそうだ。果たして怪異はピタリとおさまった。

 

知らないうちに聖域を侵して、その結果悪い報いを受ける、というのは怪談にはありがちなストーリーだが、「科学的な根拠」という錦の御旗の下、我々は知らず知らずのうちに何かとてつもない害悪を解き放ってしまってきているのではないか?そう考えるとそこ知れぬ恐怖に襲われる。コロナウイルスなんぞという正体不明のモノに全世界が翻弄されている昨今の状況を鑑みると、あながち迷信だとして笑い飛ばすことはできないような気はする。

 

寺に限らず、神社もしかりだ。神聖にして侵すべからずとされている場所には何か隠された曰くがあるのではないか、と考えると神社仏閣は本当にありがたいものなのかも知れない。

幸せの形は人それぞれ、家族の形だって人それぞれであっていい『ルポ定形外家族 わたしの家は「ふつう」じゃない』読後感

 

 

自身も離婚を経験し、フリーライターの傍らシングルマザーとして子育てを経験していくうち「普通の家族」って一体何?という疑問を持った著者大塚玲子氏が、様々な形の「家族」を取材してまとめあげたのが標題の書。

 

「普通の家族」って一体どんな形態のモノを指すのだろうか?漠然としたイメージとしては、男女二人の夫婦がその二人の間に生まれた子供を育てながら一緒に暮らすという姿が浮かんでくる。子供の人数の多寡、夫婦どちらかの親と同居などという条件が加わることもあるが、基本的には血縁関係のある人間の集団というのが「普通の家族」という言葉からイメージされる形態だろうし、この形態で暮らす日本人が多数派を占めているのが現在の状況だろうと思う。

 

この本には、そうした多数派を占める家族は当然のことながら紹介されていない。じいじが二人いる(祖父が男性パートナーと暮らしている)とか、夫婦以外の他人から精子提供を受けてできた子供とか、いわゆる「里親」に育てられた子供などの例が紹介されている。中には、父親となる男性が、当時の妻と離婚することを前提に母親と付き合って、生を受けることになったものの、結局父親は妻とは離婚せず、別の家庭を持った「父親」が存在したという人などという特別に入りくんだ事情を持つ方の例なども紹介されている。いやはや。現在の社会で「常識」とされている制度を、簡単に覆してしまう人間の行動の多様さには恐れ入るしかない。

 

ここで、注目したいのが、いわゆる「普通の家族」ではない形の生活を続けたとしても、必ずしもその生活を続けた方が、殊更不幸だったりするわけではないということだ。もちろん、周りからの「異端視」により深く傷つき、不幸な人生を送っている方もいることだろうが、少なくとも定形外の家族で生活してきたことは不幸の絶対条件ではないということだ。両親がきちんといてもグレるやつはグレるし、片親だったり、両親共に不在でもきちんと育つ人は育つ。ちゃんと幸福だって感じる事ができる。人間は一人一人が全て違う。何を不幸と感じ、何を幸福と感じるかは人それぞれだし、環境の一つとしての家族だって、まさに人それぞれ。その成員たちが幸せであれば、他人がとやかく言うべきことではないのだ。

 

しかしながら、「普通ではない家族」の形を白眼視する人はまだまだ多い。離婚へのハードルは少なくとも30年くらい前と比較すればかなり低くはなっているものの、その結果として発生数が増えたシングルマザー、シングルファザーに対しては世間の風当たりというやつは強い。LGBTカップルが育てている子供に関しても、一種独特な感情でみてしまう人は、私も含めまだまだ数が多いように思う。

 

こうした「定形外の家族」が異端視される社会というのは、結局は少数派の人々に対する偏見と差別が消えていない窮屈な社会である。多種多様な人々の意見や生活を尊重することが最終的には様々な家族のあり方を尊重することにつながると思うのだが、一つの問題が良い方向に向かっても、別の方向からもっと強力な差別や偏見がやってくるというのも社会の常だ。例えば、LGBTの人々の意見は比較的尊重されるようにはなってきたが、経済に代表される「格差」による偏見や差別は逆に強くなっているように私には思われる。大学間の格差などはその典型例だが、親が経済的に恵まれた人の方がいわゆる「いい大学」に入れる確率が高まり、今の世代の格差は、次の世代ではより深刻な問題となる可能性がある。

 

こうした問題が解消されれば家族の形についての偏見も自然と消えていくと思うのだが、いかがだろうか?

 

最後に、一つ前の投稿でも触れた姪っ子について。姪っ子の母親は外国人であり、姪っ子は混血児ということになる。国際化が進む現代の日本においても、姪の家族は定形外の家族とみなされる可能性が多分に考えられるし、混血児は子供の社会の中では分かりやすい異端者だ。もし、姪が混血児であることを理由にいじめにでも会うような事があれば、すぐにでも引き取って、当家の最寄りのインターナショナルスクールに通わせてやるぞ、くらいの気合は持ち合わせてはいるものの、そんな心配をしなくて済む社会が一番なのだ。今はコロナコロナで日も夜もくれぬという状態だが、収束の目処がついた時点で、ダイバーシティ庁でも作ってもらって、ぜひ専門の実行部隊を組織してほしい。島国日本とはいえ、ある程度の移民を受け入れなければならないような時代は遠からず来るように思う。その際にできるだけ社会的に齟齬を生まないような制度と民心を確立しておくことも政治家の大事な務めであるはずだ。

 

 

 

 

支離鬱々日記57

本日は9/20(日)、俗にいうシルバーウィークの二日目ということになる。本当は先週木曜17日から今週水曜23日まで、時期ずらしの夏休みをとる予定だったのだが、社内のとある部署の担当者のボーンヘッドのおかげで、9/18(金)は出社せざるを得なくなったため、変則の6日間休みとなった。全く、締め切りをすぎて二週間もしてから「それは他部署の担当者が提出するものだと思っていました」はねーだろ。んなもん、事前に確認しとけっつーの。そんな確認までするのが俺の役目じゃねーぞ。第一、総合的な業務の住み分けの中で、ほんの一項目だけとはいえ、部外者が介入したら、そっちの方がややこしーだろっての。そのくらい常識で考えて分かりそうなもんだぜ。ま、今年はコロナ禍で旅行の予定もへったくれもない状態だったんで、まだよかったんだが、これで、旅行の予定とかを変更せざるを得ないような状態だったら、マジ切れしてたと思うわ。表面上は穏やかにおさめたものの、少々怒りながら、連休に突入。

 

で、昨日は、緊急事態宣言が出されて以降、半年ぶりに帰省した。私も最高権力者様も郷里は群馬なので、墓参りを済ませた後、双方の実家にそれぞれ30分ほどいただけ。午前中の関越道下りは通常の倍の時間がかかるほど混雑してはいたが、コロナがなければ、多分もっと混んでいたことだろう。ちょうどオリパラが終わって、日本中がホッと一息ついて、どれ、温泉にでも行ってくるかってな気分が行き渡っていたであろう時期である。首都圏から、群馬の草津伊香保あたりは絶好の小旅行スポットとしてごった返していたであろうと思われるが、今年はどうしたって、動員の絶対数は減る。その分、行った人にとっては快適な空間ではあっただろうけどね。早く、以前のような日常が戻ってきて欲しいとつくづく思った。

 

さて、今回の帰省の最大の目的は、4月に誕生した姪っ子に会うことだった。毎日のように送られてくる写真で可愛さを満喫はしていたのだが、実際にあうと、写真や動画なんかとは比べ物にならない可愛さがあった。歯が生えかかっていることもあって歯茎がむず痒いらしく、様々に表情を変化させる様、抱いたときのあたたかな、柔らかな感触、母親譲りの長い脚など、平面な情報からだけでは感じ取れない、様々なことを「実感」する事ができ、ますます愛おしくなった。まあ、育ての苦しみを背負わなくて良いという、叔父叔母の気楽な立場での猫可愛がりの類であることは重々承知しているが、それでも可愛いことに変わりはない。これから秋冬のそうでなくても風邪やインフルエンザに罹患しやすい季節に向かうが、事情が許す限り、会いに行きたいと思う。


我が家のベランダには、申し訳程度にプランターがあり、そのプランターには買い求めたり、もらったりして植えて、生き残った草花が生えている。中でも強いのがミントだ。一度全滅しかかったが唯一残った、それも半分枯れかかった個体がいつの間にか花を咲かせ、タネを周囲に吹き飛ばして、どんどん増殖している。

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第三世代の個体が花を咲かせた

↑の写真は今朝撮ったものだが、二日ほどみないうちに花が咲いていた。最初の死にかかっていた個体から数えると3代目になる。これでまた、ある日突然、タネを撒いた記憶のないプランターから発芽して、どんどんデカくなってしまうことだろう。ピンクの花は可憐だが、そこには実にしたたかな生命力を宿している。

 

ところで、このプランターへの毎日の水やりには衣類の乾燥機兼室内の除湿機内にたまった水を利用している。つい最近買い求めた↓の商品なのだが、

パナソニック 衣類乾燥除湿機 ナノイーX搭載 ハイブリット方式 ~43畳 プラチナシルバー F-YHTX200-S

 

新しいだけあってこのマシンの性能は高く、4〜5時間もすれば洗濯物はすっかり乾くし、貯水タンクもいっぱいになる。以前使っていた製品は10年ほど前のものだが、その性能の軽く見積もって3倍くらいの能力がある。おかげで、毎日、たっぷりの水やりができる上、余った水はベランダに「打ち水」までできる。技術の進歩ってのはすごいもんだ。俗に「最高のエコ対策は最新式の機器を買い求めて使うこと」などと言われていて、ずいぶん産業界に都合のいい言葉だと思っていたが、実際に能力の明らかな差を見てしまうと、うなづかざるを得ない部分もある。

 

あなたのほんのすぐ身近にあるかも知れない怪談を味わってみませんか?『怪談和尚の京都怪奇譚(全三冊)』読後感

 

怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

 

 

 

続・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

続・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

 

 

 

続々・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

続々・怪談和尚の京都怪奇譚 (文春文庫)

 

 

私の仕事中の息抜きは、こっそりとYahooのニュース記事を読むことだ。いい気分転換になるし、世間の動きなんかもよくわかる。仕事よりも熱心に見入ってしまう事が多い。

Yahooのトップページには新刊本の「試読版」のようなものを掲載したまとめサイトの類が表示される事が少なくない。遠慮なく利用させてもらい、面白そうだと思った本は結構な割合で買い求めたりもしている。検索エンジンサイトにとっては理想的な顧客であると言えよう(笑)。

 

で、とある日の「試読版」ウォッチで見かけたのが標題の作。著者三木大雲氏は京都の蓮久寺の住職であり、いわば人間の生死の境の専門家。仏教に関心のない不良少年たちを相手に「怪談説法」を用いて働きかけ、しまいには彼らの悩み事の相談を受けるまでになったという、人の心に何かを訴えかける「怪談語り」のスペシャリストでもある。怪談語りの第一人者稲川淳二氏が主催する怪談語りのコンクールで準優勝するほどのウデの持ち主だ。

 

私は、生まれついての鈍感体質で、怪しげな気配とか、虫の知らせ、みたいなものを感じたことは皆無だ。金縛りには何度か遭ったことはあるが、胸やら腹の上に何かが乗っていたなどということはなく「これは脳は覚醒しているものの、カラダは覚醒していないがために起こる現象だ」と妙に冷静に対処して、いつの間にかまた寝入っていたという経験しかない。最後に金縛りにあったのは浪人時代だから今からもう30年以上も前のお話で、長じてからは飲み過ぎで気持ちが悪くなった時くらいしか、夜中に目が覚めるなどということすらない。

 

そんな訳で、「実体験」がない以上、基本的には狐狸妖怪の類やら幽霊なんてものはいないと考えてはいる。ただし、どうしても科学では説明のつかない現象というものがあるのは事実で、幽霊の目撃談などを「科学的に」否定している大槻義彦氏ほどのガチガチな否定派にまではなれない。そういう現象を無理やり理屈で考えるよりは、曖昧なままにしておいて、そこになんらかの物語を見出して作り上げられる怪談は大好きだ。特に、非常に不可思議な出来事の真相は、実は狂気と正気の狭間にいる人間が起こしたことだった、などという内容のお話が大好物で、故に特に初期の作品でこうした事象をテーマにすることの多かった阿刀田高氏の大ファンでもある。

 

閑話休題

 

標題の三冊の書では、三木氏が実際に遭遇した事件を中心に、様々な怪異現象が語られている。そして、最終的に、その怪異には必ず人が関わっている。幽霊になって出てくるくらいだから、いずれの人々も何かしら現世に心を残している。恨みであったり、無念の思いであったり、子孫や縁者たちの行末への心配だったり…。だから出現の仕方もそれこそバラエティーに富んでいて、一つとして同じお話はない。そして不良少年たちを惹きつけた話術は見事に文章にも活かされており、実に「盛り上げ方」が巧みだし、必ず最後には三木氏の供養によって怪異が去っていく、というハッピーエンドのオチとなるところも秀逸。あの世(あるいはこの世とあの世の狭間)に行ってしまったとしても、元は同じ人間同士、丁寧に供養し、その方のこの世への未練を断ち切れる状態にすれば、必ず事態は良い方に向かう。供養する心も大切だが、それよりも大切なのは、例えば他人の恨みを買うような不道徳な行いをしないよう自分の行動を戒めておくこと。不道徳な行いは、他人を傷つけるのみならず、いつか必ず自分の元に報いとなって訪れてくる。うん、確かに、怖い話を聞いた後で、怖い原因を作るの防ぐのも自分次第だよ、と説かれることは効果的だ。三木氏が最初に説法を始めた不良少年たちなど、自分の行いをどこか後ろめたく思っている連中にはさぞかし効果的なお話だったろう。

 

さて、この三冊を読んだ後でも、私の基本的なスタンスは変わらないが、例えば昔から、立ち入ってはいけないとされてきた場所などには、何かしらの理由が必ずあるはずで、面白半分にそうした場所に近寄ることだけはやめておこうと思う。鈍感体質ではあるが、怖がりであるというのも事実。怖さは頭の中で想像しておくに限る(苦笑)。

支離鬱々日記56

安倍一強政権を中枢で支えていた菅義偉氏が新しい首相の座につき、新しい内閣が、昨日発足した。閣僚は継続、または再登板が多く、まさしく安倍政権をそのまま継承した形になる。

 

コロナ禍という史上稀に見る大難の最中ゆえ、あまり人をいじらずに、対策のスピードを緩めない、という考え方に関しては一理あると思う。人心刷新も時には大切だが、今やるべきことではない。今は何しろコロナ禍への有効な対策を早急に講ずる事が最優先だ。

 

しかしながら、モリカケサクラ問題に関して「もう済んだ事」にしてしまっているのはどうにも解せない。辞めてしまったとはいえ、前首相の疑惑が消えてしまったわけではない。人が一人死んでしまった問題でもある。コロナ対策が済んだら、この問題は徹底的に追及すべきである。ここで追求しておかなかったら、菅氏の次の政権は「二代も前の首相のことなんか知らないよーだ」で済ませてしまうに決まっているし、人々の関心の低下も避けられないだろう。新しく船出した野党の第一党にもぜひ頑張ってほしい。この問題に関しては、牛歩戦術だろうが、審議拒否だろうが、委員会での乱闘であろうがなんでもやっていただいて結構だ。

 

社会的なネタの後は思いっきり身辺ネタ。私は通常の通勤時はiPhone8にDLした英会話や音楽をイヤホンで聴きながら電車に乗っている。先日の久々の出勤時に、何かのはずみで、左耳のイヤホンが外れたのだが、右耳のイヤホンからは一切音が聴こえていないということに気づいた。

 

心当たりはある。このイヤホンは一度ズボンのポケットに入れたまま洗濯してしまった事があるのだ。その際は、試しに聴いてみたら問題なく音が出ていたので、そのまま使い続けていたのだが、やっぱり一度丁寧に内部まで水分が浸透してしまった機械はきちんと傷んでいたようだ。

 

ところで現世代のiPhoneをお使いの方ならご存知のとおり、この世代からはイヤホン専用の穴がなくなっており、イヤホンはライトニングのアダプタを噛ませて、接続しなければならない。ということはイヤホンの不具合なのか、アダプタの不具合なのかも確認しなければならない。別の機器で試してみたところ、イヤホンの右耳からはちゃんと音が出ていたので、アダプタの問題だった。イヤホンのピンジャックとライトニングのアダプタなんぞは、iPhoneユーザー以外には需要がないのだろう。店頭で買い求めたアダプタは、例えばUSBとマイクロUSBのコネクタなどに比べると非常に割高だった。安いイヤホンが1本買えるくらいの値段したのだ。全く足元見てやがるわ。ま、洗濯機に入れてしまった私のおマヌケさの値段だとでも考えるしかない(苦笑)。

 

このアダプタを買い求めた店のすぐ近くで少しモヤモヤ。すぐ近くでクラクションが鳴ったのでその方向を見てみると、とあるT字路の一旦停止でウインカーを出しながら止まっている車が1台、そしてその一旦停止線の前には道路のど真ん中で携帯をいじっているオバはんが一人。おいおい、道路のど真ん中で携帯イジりながら立ち止まったままなんて、いくらなんでもそりゃマナー違反だぜ。あとせいぜい数歩脇にずれれば車は十分通れるんだから道の端にどいてからイジくれよ、と思わせられる光景だった。車はその後二度ほど軽くクラクションを鳴らしたが、ほんの数mの距離で鳴らされているにもかかわらず、そのオバはんは全く気がつかない。車は今度は少し大きめにクラクションを鳴らし、そこでようやくオバはんは気がついたのだが、明らかに、そんなに大きな音を出さなくてもという怒りを表していた。自分の方が悪いのに逆切れしてんじゃねーよ、いい歳こいて。他人事だというのに余計な苛立ちを拾ってしまった。

 

先日、久しぶりに外飲みをした。久しぶりに飲む生ビールは格別だった。キリンが家庭でも生ビールが味わえるサーバーってのを出しているそうだが、ちょっと興味を惹かれてしまう。家飲みの缶ビールとはあきらかに味が違う気がするのだ。ま、これは様々な要因が絡みあった上での「美味さ」なので、家でサーバー用意すればすぐにこの味を再現できるものではないというのは理解しているが…。

その日はサシ飲みで、飲みの相手は英語の講師をボランティアで続けている方。先般、自分のやる気のなさを、「皆でやる施策がなされていない」とこじつけて正当化しようとして、私の激怒りを引き起こしたマッスルバカについての憤懣を聞いてもらった。お互いに酔っぱらっていたせいもあるが、ついつい言葉が激しくなった。講師氏曰く「もう、そんなバカはいくらクチすっぱくやれやれ言っても絶対やる気なんか起こさないから相手にするだけエネルギーの無駄だよ。もう『お前とは一切口もきかないし、相手にもしない。完全に空気みたいな存在として無視するからな』とでもはっきり宣言して、本当に無視してやればいい。俺だってそんなやつ何人も見てきたし、なんとかしようと躍起になったこともあったけど、結局やらないやつはやらないんだから」。少し気持ちが軽くなった。マッスルバカに関してはなるべく接点を持たないようにしてるし、会社ででくわしても完無視はしているが、そんなことを「意識」するだけでもエネルギーの無駄遣い。雑踏ですれ違うような見知らぬ人々の一員として風景の一部だとでも思えばいい。私のモヤモヤは、ビールによってたまった尿をトイレで放出するのと同時にすっかり流れていった。たまには他人と交わって、外飲みするのも良いものだ。

支離鬱々日記55

右眼の痛みと充血が一向に良くならない。正確にいうと、徐々に痛む時間は短くなってきてはいるのだが、その分なのだろうか、痛んでいる時間中の痛みが重くなったのだ。一旦痛み出すと、2時間くらいは痛みが持続し、しかも偏頭痛まで伴う。場所が場所だけに、揉んだりさすったりもできない。せいぜい目薬をさして、痛みが引くまで目をつぶっているしかない。そのまま寝入ってしまって、起きたら目の痛みも消えている、というパターンもあるが、これは夜間の在宅時しかできないやり過ごし方だ。下方向を見ていて、上方向に視線を移すときや、近くのものをみようと、ピントを合わせようとする際の痛みが一番ひどい。その辺の筋肉やら神経やらが炎症を起こしているのだろう。

 

目が痛いという状態は、想像以上に行動を制限する。車の運転を始め、推奨されない動作もあるが、何より、何かをやろうという気力が削がれてしまうのだ。そもそも私は鬱気質なので、一旦嫌だと思い始めると、なかなかその気持ちを捨てる事ができないのだが、目が痛い、という状態は、「行動を起こせない」という初歩的な病状への言い訳になってしまうのだ。というわけで、トレーニングはしないわ、英語の勉強はしないわ、文章は書かないわ、こんな状態の自分を肯定的に見られるはずもなく、自分を責めてばかりいて、それがまたやる気のなさを誘発して…という悪循環をもたらしていた。早く、瞬きするのも怖いような痛みから解放されたい。

 

しかしながら、目の痛みには良い副作用が二つほどあった。

 

一つは飲酒量が減った事。痛みの原因は炎症であり、酒は炎症の治癒スピードを鈍らせる。広岡達郎氏は監督時代、怪我を理由に練習や試合を休んだ選手が酒を飲んでいた事が発覚すると、激怒したそうだ。このことを知っていたということもあったが、1番の理由はちょうど酒が飲みたくなる夕刻に目が痛むようになったからだ。さすがの私も今の目の痛みに逆らって飲酒するほど酒が好きなわけじゃないし、酒なしではいられない体でもない。ついつい深酒になりがちな家飲みの安全弁としてはなかなかに有効である。

もう一つは読書量が少し戻ったこと。ここ数ヶ月、電子書籍用に買い求めたタブレットは、完全にゲーム専用機と化していた。ゲームも度を越すと、単なる害悪だ。本を読んだり、映画を見たりする時間は削られるし、麻痺した感覚のまま、かなりの額をゲーム内課金につぎ込んでしまった。パチンコやらスロットやらなら、まだ、リターンがあることもないわけではないが、ゲームという、現実には全く意味をなさない仮想空間に、金をつぎ込んでしまうという、明らかなバカをここ数ヶ月繰り返してきたのだ。ようやくそのことに気がついた。「あの金があれば一体何が買えただろう?何ができただろう?」と考えると、身悶えするほど無駄なことをしたとの後悔が身体中を駆け巡る。さて、ここでもストッパーとなったのは目の痛みだ。長時間ゲームをすると耐え難いほどの目の痛みに襲われるようになったのだ。ちょっとした休憩時間などにはまだゲームに手が出てはしまうが、課金しない範囲に止まっている。そしてゲームに注ぎ込んでいた時間は読書に費やせるようになった。読書できるということはブログのネタも増えるということだ。

 

目の痛みは不快ではあるが、今の生活を見直し、変えていくきっかけになったとも言える。ココロの前にカラダが警告を発してくれたのかもしれない。

 

カラダといえば、先日、数ヶ月ぶりにかかりつけの整体院で施術をしてもらった。コロナ禍で、いかに対策を十分にとっていると言われても「院内感染」への不安は拭いきれなかったし、通勤電車のストレスもトレーニングやラグビーによる筋肉痛もなかったので、施術への欲求も少ないという状態にあったためだ。で、今回本当に久しぶりに、マッサージと針の治療を受けたところ、その日の夜は自分でも驚くくらい、深く眠る事ができた。寝入って、ほんの少し経ったなという意識で布団をかけ直すために目を開け、時計を見たら、いつもの起床時間をだいぶ過ぎていたのだ。実際にカラダに不具合があって出かけた時は、そんなに施術の効果を実感することはなかったのだが、確実に効果はあったのだ。施術してもらっていたからこそ、あの程度の不快感で済んでいたのであり、施術していなければ、もっとひどいことになっていたのだ、ということを改めて認識した。毎週毎週だと、カラダが刺激に慣れてしまう恐れもあるので、二週間に一度程度の通院を心がけようと思う。

 

 

球界随一の辛口評論家の辛味を十分に味わってください『プロ野球激闘史』読後感

 

プロ野球激闘史 (幻冬舎単行本)

プロ野球激闘史 (幻冬舎単行本)

 

 最近、在宅勤務で通勤する事が稀になっているため、終業後はすぐにTV桟敷に腰を落ち着ける事が多い。で、ありがたいことに女房殿の定番視聴番組以外はチャンネル権が与えられているので、プロ野球を観る機会が多くなった。大学入学と同時にスポーツといえばラグビーという状態になってからは初めてのことである。それ以前の何をおいてもプロ野球観戦という状態だった頃は、まだTV中継は、バックネット裏から審判と捕手の背中を画面の中心に据えて写すという状態だった。もう40年以上も前のオハナシだ。

 

それはV9を達成した「大巨人時代」が終焉し、広島が初優勝を果たした頃だった。その後、パリーグから張本勲加藤初などの有力選手を引っこ抜くという、今にも通じる「札びらで頬を引っ叩く」補強で巨人が2連覇を果たしたが、3連覇を阻止し、球団創設以来の初優勝を果たし、余勢を駆って日本一まで上り詰めたのが広岡氏率いるヤクルトスワローズだった。ヤクルトというチームは当時のオーナーが巨人ファンであることを公然の秘密とするような球団で、優勝などという言葉には無縁だという意識が染み付いた、負け犬根性の見本のようなチームだったが、そんなチームを優勝にまで導いた広岡氏というのはどんな方なのだろう?

当時読み込んでいた巨人のファンブック的なものには1960年代の主力遊撃手というような記述しかなかったし、広岡氏が現役を引退したのは1966年のことなので、私は氏の引退時にはまだ父親と母親の体内のタンパク質にしかすぎなかったため、どんな選手であったのかを実際に観た記憶もない。メガネの奥の目がキラリと光る、少し怖そうなおじさんというのがその当時のぼんやりとした印象。後になって「ああいう人が、上司とか、取引先とかにいたらやだな」というイメージが勝手に刷り込まれた。西武ライオンズ監督時代の選手管理手法、土俵際の際まで押し込まれても、最後には逆転してしまう粘り強い采配などが印象に残る。

 

しかしながら、私にとっての広岡氏は超激辛野球評論家である。プロ野球中継の解説者などに起用されようものなら、見事なまでの火消しを見せてしまうからだ。

アナウンサーが興奮しながら

「二遊間強烈な当たり、抜けるか?抜けるか?いやショートの○○飛びついた!!そして、すぐに起き上がって一塁送球、アウト〜〜。いやいい守備を見せました、○○。抜けていれば一点は確実という場面でファインプレーが出ました!」

などと実況しようものなら、それこそ氷のように冷静に

「いや今の場面であのボールカウントなら次に投げる球種もコースもわかるはずですから、ポジションをちょっと変えておけば、正面で取れた打球です。あんな打球に飛びついて取るなんてプロとしては恥ずかしいですよ」

などと言い返し、アナウンサーの興奮に水をかけて熱気を完全に奪ってしまう。私のようなひねくれ者には、氏の解説は見事に筋が通っていて、一つ深い野球の見方というものを示してくれていると好ましく感じられるのだが、不快に思う方の方が多いのだろう。アメリカの大統領選と同様、あんまり「頭がいい」ってことを示しすぎるよりも、観客に近い目線で、結果に一喜一憂する解説者の方が一般ウケがいいらしく、TVからお呼びが掛からなくなって久しい。個人的には広岡氏が苦笑まじりに素人目線のアナウンサーを嗜めた後の「…」としか表現のしようのないなんともいえない空気感が好きだったのだが…。

さて、標題の書はそんな広岡氏の辛口な見方が十分に堪能できる一冊だ。選手時代の同僚であった二人のスーパースター(言わずと知れた長嶋茂雄氏と王貞治氏)、確執があったとされる当時の監督川上哲治氏、遊撃手のライバルと評された牛若丸吉田義男氏、対戦した金田正一氏、稲尾和久氏、杉下茂氏などのプレーについて、冷静な目で観察した事が記されている。広岡氏をもってしても批判だけをするわけにはいかない実力者ばかりが取り上げられている。

指導者として付き合った連中としては、ヤクルト時代の若松勉氏やチャーリー•マニエル氏、西武時代の工藤公康氏や秋山幸二氏などの成長や苦悩の姿を氏の視点で描いている。西武の監督の後継者である森昌彦(現祇晶)氏については、思いっきり辛口に批評している。参謀としては非常に有能で、かつ指揮官としては整った戦力を率いて勝ち切るという能力には恵まれていた、という風に褒めている部分もある。ただし、「育てながら勝つ」という点については一流とは言い難いと断言している。その育成下手が如実に現れた選手が清原和博氏で、チームとしては横浜ベイスターズ清原氏は「無冠の帝王」で終わった上に、引退後は違法薬物に手を出すような人間になってしまったし、育成途上の選手が多かった横浜ベイスターズでは優勝争いに加わることすらできない低空飛行が2シーズン続いた。うん、筋が通ってるね、実に。

最終章では佐々木朗希や大谷翔平といった、今後スーパースターになりうる選手に焦点を当て、現状の問題点と今後の育成方針について述べている。それぞれの選手についての詳細は本文に譲りたいが、過度な筋トレと、無闇なアメリカ野球への追従を戒めている事が興味深い。精神論的に「走れ、走れ」を錦の御旗の如く振りかざすことにも懐疑的ではあるが、金田正一氏を始め、大記録を打ち立てた投手というのは、下半身の安定こそが投球に力を与え、故障の回避にもつながるということを理解し、自分が納得するまで走り込んでいたという事実には大いに注目している。

 

大谷選手の怪我の多さは、筋トレのやりすぎだという指摘も興味深い。先述の清原氏も格闘家が行うのと同様の筋トレを行なって鍛えたが、結局怪我は減らなかったし、イチロー氏は筋トレそのものを一切やらなかったそうだ。現役で言えば巨人の澤村投手などもマニアがつくほどの筋トレ信奉者だが、成績は振るわない。野球には野球に適した鍛え方があり、それは必ずしもマシンを使った筋トレではない、という事が早く「常識」として定着して欲しいものだ。

 

ではどうして鍛えたら良いのか?「それを考えるのがプロってもんですよ。」と広岡氏なら答えるだろう。口元にやや皮肉っぽい笑みを浮かべ、メガネの奥の目をキラリと光らせながら…。